不動産の売却を検討されている方向けに、不動産を巡る紛争を数多く取り扱ってきた弁護士から、売却時の様々な局面にスポットを当てて、気をつけるべきポイントをアドバイスいたします。
売渡承諾書の差入先とは別の買主に物件を売却する際の注意点
Q
私は、長い間自分の所有する土地と建物で飲食店を経営しておりましたが、近年体調が優れないので、店を畳んで、店舗の土地と建物を売却しようと思い立ちました。
そこで、不動産会社にお願いして(一般媒介契約を結びました。)購入希望者を探してもらったところ、1か月ほど後、5,000万円で購入したいという購入希望者が見つかりました。
その後、私は、購入希望者から「買付証明書」を受け取る一方、その方から求められたため、不動産会社を通じ、「売渡承諾書」と題する書面をお渡ししました。
ところが、「売渡承諾書」を渡した翌日、これから具体的な契約の日取りや契約条件を決めようとした矢先に、同窓会で出会った大学時代の友人にその話をしたところ、
「そんなにいい物件があるなら6,000万円で譲ってくれないか。」
と言われました。
私としては、その友人は信頼のおける人物ですので条件面もよい彼に土地建物を売りたいと思っているのですが、「買付証明書」や「売渡承諾書」を交換した後では、もう最初の購入希望者に土地建物を売るしかないのでしょうか。
なお、「買付証明書」と「売渡承諾書」に書かれている内容は、次のとおりです。
・買付証明書
私は、末尾記載不動産を、売買価格5,000万円(消費税込)で買い受けたく、本書をもってお願い申し上げます。ただし、売買代金の支払方法、引渡形態、契約日その他の条件につきましては、別途協議といたします。また、この証明書の有効期限は、作成日から1か月とします。
・売渡承諾書
私は、末尾記載不動産を、売買価格5,000万円(消費税込)で売り渡すことを承諾いたします。(以下は買付証明書の「ただし」以下と同じ内容が書かれています。)
A
1.何が問題か
不動産の売買に際しては、正式な売買契約書を取り交わす前に、購入希望者が現れた段階で、売主から購入希望者に対して「売渡承諾書」と題する書面を、購入希望者から売主に対して「買付証明書」と題する書面を取り交わすことがしばしばあります。
これらの書面を交付する目的は、購入希望者が金融機関から購入代金の融資を受ける際の審査に利用するためや不動産業者が仲介業務を円滑に行うためなどとされています
他方で、「売渡承諾書」や「買付証明書」を交付するのは正式な売買契約書を取り交わす前ですから、売主としては、他に好条件で不動産を購入したい人が現れればそちらに不動産を売りたくなることも十分にあり得ます。
それでは、「売渡承諾書」を交付し、購入希望者から「買付証明書」を受け取った後で、売主が、一方的に購入希望者との売却交渉を取りやめることに制限はないでしょうか。
正式な売買契約を締結した後であれば、受け取った手付金の倍額を買主に対して支払うことが必要ですし、買主に契約違反があったなど契約に定められた事由に該当しなければ、売主の一方的な意思で契約を解除することはできません。
「売渡承諾書」や「買付証明書」を相互に交付したことをもって、売主と購入希望者との間で売買契約が成立したことになるのでしょうか。
2.売渡承諾書、買付証明書を相手に渡すことの意味
不動産の売買契約は、売主が自分の所有している不動産を買主に譲ること、買主がこれに対してその代金を支払うことを約束することによって成立します。
ここで、ご質問にあった買付証明書の「売買価格5,000万円(消費税込)で買い受けたく」や、売渡承諾書の「売買価格5,000万円(消費税込)で売り渡すことを承諾いたします」との文言だけを切り出しますと、売買契約の成立に必要な約束をしているようにも思えます。
しかしながら、不動産の売買契約においては、不動産という極めて高額な物の売り買いであることもあり、買付証明書や売渡承諾書を交付してからも、売主と購入希望者とが売買代金の支払日や引渡形態など様々な契約条件について具体的に売買の交渉を行います。
その上で、交渉を経て両者で契約条件について合意に至った段階で、正式な売買契約書を作成し、契約書に両者が調印した時をもって売買契約の成立とすることが一般的です(売買契約書の重要性につきましては、2018年12月号「不動産売却時の契約書を読む際のポイント」もご参照ください。)。
以上の売買契約成立までの一般的な流れからいたしますと、「売買価格5,000万円(消費税込)で買い受けたく」と書かれた買付証明書や、「売買価格5,000万円(消費税込)で売り渡すことを承諾いたします」と書かれた売渡承諾書がそれぞれ交付されていたとしても、それによって売買契約が成立したと解することは時期尚早であり、これらの書面を交付することは、飽くまで交渉開始のきっかけとなる双方の意向の表明にすぎないと解されます。
裁判例においても、不動産を一定の条件で売る又は買う旨を記載した売渡承諾書や買付証明書は、その書面記載の条件でその不動産を将来売る又は買うとの希望や(買付証明書について大阪高裁平成2年4月26日判決)、有効期限内に条件について合意すれば売買契約を結ぶ意思のあることを示すものにすぎず(売渡承諾書について奈良地裁葛城支部昭和60年12月26日判決)、売渡承諾書や買付証明書を交付したからといって直ちに売買契約やその予約が成立するものではないと判断されています。
3.売渡承諾書の文言にはご注意を
このたびご質問者様が購入希望者にお渡しされた売渡承諾書には、単に「売買価格5,000万円(消費税込)で売り渡すことを承諾いたします。」としか記載されておらず、むしろ、「売買代金の支払方法、引渡形態、契約日その他の条件につきましては、別途協議といたします。」と契約日や売買代金の支払日、支払方法など重要な契約条件はこれから決めることが明記されています。また、購入希望者との間でのこうした契約条件についての交渉もまだ開始されていません。
したがいまして、先ほどお話しした一般的な売渡承諾書と同様、ご質問者様と購入希望者との間で売買契約やその予約は成立しておらず、ご質問者様にてその土地建物をどなたに売却されるかは未だ自由であり、買付証明書を提出した購入希望者とは別の方に売却されても差支えはないと解されます。
ご質問の件につきましては以上のとおりですが、一口に「売渡承諾書」といっても、その内容には様々なものがあります。例えば、「他の方とは一切交渉しないことを誓約します。」や「あらかじめ貴殿から書面によるご同意を得ることなく、他の方に本不動産を売却することは致しません。」など、購入希望者に独占的な交渉権を与える言葉が記載されていた場合、購入希望者に無断で交渉を打ち切ってしまうと、売主にて購入希望者に対して損害賠償の責任を負う可能性もないわけではなりません。
「売渡承諾書」の提出を求められた場合には、念のため、そこに書かれた内容や、その意味を不動産会社に確認した方がよろしいでしょう。
4.交渉が進んだ後の場合は不当な交渉の打切りとなる可能性も
また、売渡承諾書や買付証明書を交付したか否かにかかわらず、交渉により契約の条件がかなり煮詰まってきた段階で、勝手に交渉を打ち切って別の方に不動産を売却してしまいますと、購入希望者に対して損害賠償の責任を負うおそれがありますので、注意が必要です。
すなわち、当事者にて、もう売買契約は確実に締結されるものだとの信頼を与えてしまうほど契約交渉が具体的に進展してしまったときは、正当な理由なく交渉を一方的に打ち切ってはならない義務があると解されています。
例えば、購入希望者側が交渉を打ち切った事案ですが、既に売買契約書の草案がまとまり後は売買契約書を作成して署名押印を残すのみとなった事案について、交渉を打ち切った購入希望者に、売主に対するこれまで売主が契約締結のために投じた費用の損害賠償責任が認められた裁判例があります(東京地裁平成20年11月10日判決)。
5.まとめ
売主としては、自分の所有している不動産をよりよい条件で売却したいと考えることは当然のことですから、その不動産をどなたに売却されるかは自由です。
このことは、売渡承諾書を購入希望者に交付されたとしても、原則として変わるものではありません。
他方で、売渡承諾書に書かれた内容や、交渉の煮詰まり具合によっては、例外的に、一方的に交渉を打ち切ってしまうと、購入希望者からこれまでに投じてきた費用の損害賠償を求められる場合もゼロではありません。
売渡承諾書の交付に当たっては念のため不動産会社にその内容と意味を確認するとともに、後になってから売却先を突然変更することにならないよう、交渉すべき購入希望者の選定に当たっては、不動産会社と相談しながら検討を進めることが重要です。
長町 真一Shinichi Nagamachi弁護士
弁護士法人 御宿・長町法律事務所 http://www.mnlaw.jp/index.php
平成16年弁護士登録 不動産をはじめ、金融・IT関連等多種多様な業種の顧問会社からの相談、訴訟案件を多数受任。クライアントのニーズに対し、早期解決、利益最大化を目指し、税務・会計にも配慮した解決方法を提案。経営者目線での合理的なアドバイスも行う。