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築地の発展

1868(明治元)年に「築地居留地」が開かれると、イギリス、オランダをはじめ、各国の領事館が開設された。その後、1874(明治7)年の「アメリカ合衆国公使館」の開設を皮切りに、計9か国の公使館が開設された。1873(明治6)年、全国でキリスト教禁止の高札が撤廃されると、「築地居留地」には13教派のミッション(伝道本部)が進出、教会やミッションスクールが作られるようになった。現在の「明治学院」「女子学院」「青山学院」「立教学院」「雙葉学園」「暁星学園」などの学校は、明治初期~中期に「築地居留地」に誕生したミッションスクールが前身となっている。1899(明治32)年の条約改正により、一帯は居留地としての使命を終え、明石町と町名がつけられた。その後も洋館は建ち並んでいたが、1923(大正12)年の「関東大震災」(以下震災)でほとんどが失われた。


教会とミッションスクール

写真は明治後期の撮影。左の建物は、1891(明治24)年に「英国聖公会」を母教会とする「日本聖公会」により献堂された「聖三一会館」。右の森の奥に1889(明治22)年に献堂された「聖三一聖堂」があった。「三一」とは「三位一体」のことで、日本におけるプロテスタントの中心的な教会であったが震災で焼失。復興の際、青山南町へ移転した。
MAP __(聖三一会館跡)【画像は明治後期】

現在の同地点付近の様子。左には「聖路加(せいるか)国際病院 旧館」、右には「聖路加国際病院 本館」がある。

「米国聖公会」の宣教師、チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教は、1874(明治7)年、「築地居留地」の一画(正確な場所は不明)に、聖書と英学を教える私塾「立教学校」を開校した。その後、大火事などによる数度の移転や一時閉鎖ののち、1883(明治16)年、現在の「聖路加国際病院」本館の敷地の北西角付近に「立教大学校」を設立。さらに制度や名称の変更を経て、1896(明治29)年に現在の「聖路加国際大学」の敷地内の西側部分付近に新校舎が落成、「立教中学校」となった。写真は1907(明治40)年の「立教中学校」で、手前の川は「築地川」。この年、「立教大学」も敷地内に設置されたが、1918(大正7)年に池袋に移転している。
MAP __(立教大学校跡)
MAP __(立教中学校跡)【画像は1907(明治40)年】

「立教中学校」は震災で校舎を焼失し、既に大学が移転していた池袋へ移転。戦後に新制の「立教高等学校」などになった。写真は現在の様子で、かつて「立教中学校」があった場所には「聖路加国際大学」の校舎がある。「築地川」は埋立てられ、このあたりは「築地川公園」となっている。

「アメリカ合衆国公使館」と「ホテル メトロポール」 MAP __

1874(明治7)年、「アメリカ合衆国公使館」が麻布から「築地居留地」へ移転し、翌年に建物が完成した。1890(明治23)年、公使館が赤坂へ移転すると、建物は改装され横浜の「クラブ・ホテル」の支店となり、1898(明治31)年に「ホテル メトロポール」として独立した。宿泊客は外国人が大半を占め、各国の公使館員が宴席で利用することも多かったという。1907(明治40)年に「帝国ホテル」に買収されたのち、1909(明治42)年に閉鎖された。写真は明治30年代の撮影で、左の建物が「ホテル メトロポール」。右奥に見える工場は「東京石川島造船所」。【画像は明治30年代】

「アメリカ合衆国公使館」及び「ホテル メトロポール」があった場所は、現在の「聖路加ガーデン」の南側(写真では手前)のタワー、「聖路加レジデンス」のあたりとなる。

キリスト教の伝道の中で設置された「聖路加国際病院」 MAP __

明石町にある、東京を代表する大規模総合病院「聖路加国際病院」は、キリスト教の伝道の中で「築地居留地」に設置された病院を前身としている。1874(明治7)年、「スコットランド一致長老教会」の宣教医師ヘンリー・フォールズが「健康社築地病院」を開院。フォールズが帰国後、荒廃していた病院の建物を、1901(明治34)年に「米国聖公会」の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り「聖路加病院」を開院、1917(大正6)年に「聖路加国際病院」と改称した。病院の建物は震災で倒壊、1933(昭和8)年にアントニン・レーモンドらの設計により再建された。写真は再建後の「聖路加国際病院」。【画像は昭和10年代】

戦後はアメリカ軍が接収し「米軍極東中央病院」として使用、1955(昭和30)年に返還された。1992(平成4)年に新病院(現在の本館)が竣工。震災後に再建された病院の建物は一部が保存されており、現在は旧館(写真中央)と呼ばれている。

「新島原遊廓」と「新富座」 MAP __(新富座跡)

江戸末期の1868(慶応4)年、膳所(ぜぜ)藩本多家の上屋敷だった場所に、新しい遊廓の開設が許可され、京都の「島原遊郭」に因み「新島原遊郭」と名付けられた。翌年に誕生する居留地の外国人客を見込んでの開設であった。しかし「築地居留地」の外国人には好まれず、また外国人の安全のため門番の警備が厳しく、日本人客も少なかったことから、1871(明治4)年に廃止となり、それに伴い新富町という新町名が付けられた。翌1872(明治5)年、歌舞伎劇場で江戸三座の一つ、「守田座」(1858(安政5)年に「森田座」より改称)が新富町へ移転すると、茶屋街や花街として賑わうようになった。

1875(明治8)年、「守田座」は「新富座」へ改称となったが、翌年の火災で類焼、1878(明治11)年に近代的な劇場を新設した。写真は明治後期~大正前期の撮影。1910(明治43)年に「松竹」が買収しているが、これは関西を地盤としていた「松竹」の東京初進出であった。【画像は明治後期~大正前期】

「新富座」は震災で被災し、劇場としては廃座となった。跡地は映画館の「新富座」として再建され、「松竹」の封切館として1939(昭和14)年まで営業した。また、1926(大正15)年には、「松竹」の本社が「新富座」の隣接地に移転してきている。戦後、「新富座」の跡地は「京橋税務署」となり、2020(令和2)年に現在の庁舎へ建て替えられている。過去写真中央に見えるように、この通りには1904(明治37)年に「東京市街鉄道」が開通、のちに市電・都電となり、1971(昭和46)年に廃止されるまで路面電車が往来していた。

「築地市場」と「場外」

江戸期から日本橋にあった「魚河岸」(以下「日本橋魚河岸」)や、京橋にあった「大根河岸」(青物市場)は、震災で大きな被害を受けた。東京市では震災前より中央卸売市場の計画を進めていたこともあり、震災後、「海軍省」から築地の用地の一部を借り、暫定的に市設の「築地魚河岸」を設け「日本橋魚河岸」を移転させた。写真は1931(昭和6)年頃の「築地魚河岸」。【1931(昭和6)年頃】

築地には、震災復興事業の一環として公設の新市場が建設されることとなった。築地にあった「海軍技術研究所」が1930(昭和5)年に目黒へ移転となり、その跡地に1935(昭和10)年、「日本橋魚河岸」(のち「築地魚河岸」)が前身の「水産物部」、「大根河岸」が前身の「青果部」からなる、「東京市中央卸売市場本場」(以下「築地市場」)が開設された。写真は開設当初の撮影。扱われる生鮮食料品は、船で運ばれ「隅田川」の岸壁(写真手前)から荷揚げされたほか、「汐留駅」からの引込線が曲線を描く建物(写真中央)に沿って引かれており、長い貨物列車で運ばれた。【画像は1935(昭和10)年】

「築地市場」は、戦時中は統制により市場としての賑わいは失われたが、戦後に復活を遂げ、世界最大級の市場として発展した。しかし、老朽化が進み、また手狭になったことから再整備が検討されるようになり、東京都は2001(平成13)年に豊洲への移転を決定。豊洲の土壌汚染対策などから移転は遅れたが、2018(平成30)年に「豊洲市場」が開場、「築地市場」は閉場となった。写真は閉場の日の「築地市場」。跡地は、2021(令和3)年に開催された「東京2020オリンピック・パラリンピック」では輸送拠点として利用され、現在は再開発が進められている。
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震災復興事業では「歌舞伎通」(現「晴海通り」)、「市場通」(現「新大橋通り」)などの大規模な道路の建設や区画整理も行われ、「築地本願寺」の門前の寺院の多くも郊外へ移転した。寺院の跡地には、隣接する「築地市場」の賑わいから多くの商店が集まるようになり、問屋街として自然発生的に発展、「場外」「築地場外市場」と呼ばれるようになった。写真は1963(昭和38)年撮影の「築地場外市場」。右上に「岩元市場」という看板が見える。【画像は1963(昭和38)年】

「築地場外市場」には現在も多くの商店があり、業者や買い物客が多数訪れている。写真は同地点付近の現在の様子で、過去の写真で「岩元市場」の看板が掲げられていた建物も残っている。写真右端の建物は、市場の豊洲移転後も築地の賑わいを維持するため、2016(平成28)年に中央区が設置した商業施設「築地魚河岸」。「豊洲市場」の仲卸などを経営母体とした小売店が約60店入っており、飲食店など食のプロが仕入れで利用するほか、多くの一般客・観光客も訪れ賑わっている。
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