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武蔵野の自然に恵まれた地


「神田川」が流れる落合は、蛍狩りの名所 MAP __

「神田川」と「妙正寺川」の清流が落ち合うことから落合と呼ばれた一帯は、江戸時代には「落合ほたる」とも呼ばれる蛍の名所として知られていた。【図は江戸後期】

かつて「神田川」と「妙正寺川」は現・西武新宿線「下落合駅」付近で合流していたが、現在、「妙正寺川」は1982(昭和57)年度に完成した「高田馬場分水路」(「新目白通り」の地下に造られている)に繋げられており、1.2kmほど下流の「高戸橋」付近で「神田川」の本流と合流している。写真左は「高田馬場分水路」へ向かう「妙正寺川」で、右端に「下落合駅」がある。

将軍の「御鷹場」の一つだった「御留山」

鷹狩とは、鷹を使って鳥類や動物を獲る狩りの方法。古くは天皇・貴族などの娯楽であったが、中世以降は、多くの武将が嗜みとして行い、鷹は献上品としても喜ばれた。徳川家康も鷹狩を好んだことで知られ、江戸入府以降は江戸近郊へ出向き鷹狩を楽しんでいる。将軍が鷹狩を行う場所は「御鷹場(おたかば)」「御拳場(おこぶしば)」などと呼ばれた。

二代将軍・秀忠以降も鷹狩を行い「御鷹場」の整備も進められたが、五代将軍・綱吉の時、「生類憐みの令」に伴い鷹狩が禁止された。その後、八代将軍・吉宗が鷹狩を復活させ、江戸近郊の「御鷹場」は「葛西筋」「岩淵筋」「戸田筋」「中野筋」「目黒筋」「品川筋」の六筋へ再編され、幕末まで続いた。図は江戸近郊の「御鷹場」の池袋付近を抜粋・加工したもの。現在の豊島区域は概ね「戸田筋」に属していたが、駒込村は「岩淵筋」、下高田村は、下落合村(現・新宿区)などとともに「中野筋」に属していた。【図は江戸後期】

幕府は山林の保護や将軍の鷹狩に備えて禁猟とするのために一般人の立ち入りを禁止した場所を「御留山(おとめやま)」と呼んだ。下落合村の崖線は将軍の「御鷹場」とするため「御留山」とされた。浮世絵は江戸末期、歌川広重が描いた『冨士三十六景』より『雑司かや不二見茶や』。雑司ヶ谷村にあった「富士見茶屋」から「富士山」方面を望んでおり、右に見える山が下落合村の「御留山」となる。「富士見茶屋」の跡地は現「学習院大学」キャンパス内の「富士見会館」の南側付近で、江戸後期に「富士見茶屋」のそばに建てられた松尾芭蕉の句碑が残るほか、「富士見茶屋跡」の説明版も建てられている。
MAP __(富士見茶屋跡)【図は江戸後期】

1969(昭和44)年、かつて「御留山」と呼ばれた場所の一画に「おとめ山公園」が開園した。写真は現在の「おとめ山公園」。1973(昭和48)年、「落合ほたる」の復活を目指し、園内でホタルの養殖が試みられ成功、その後も飼育が続けられており、現在は毎年「ホタル鑑賞会の夕べ」も行われている。「おとめ山公園」では、2009(平成21)年度より拡張の計画・整備が進められ、2014(平成26)年に全面開園、新宿区立としては2番目の大きさを誇る公園となった。
MAP __(おとめ山公園)

安産の神として信仰を集める「鬼子母神」 MAP __

雑司ヶ谷の「鬼子母神」は、安産の神様として人々の信仰を集めてきた。祀られている「鬼子母神像」は、1561(永禄4)年に清土(現・文京区目白台)で掘り出されたという。1666(寛文6)年に本殿の開堂供養が行われ、江戸時代には武家、庶民問わず参拝者が訪れた。【画像は明治後期】

本殿は、2016(平成28)年に国の重要文化財に指定された。

池袋の地名の由来「丸池」 MAP __

農業用水だった「弦巻川」は、現在の「池袋駅」西口付近にあった「丸池」を水源としていた。この池が「池袋」の地名の由来とされる。【画像は1918(大正7)年頃】

「元池袋史跡公園」には「池袋地名ゆかりの池」の碑が建ち、「丸池」を偲ばせる。

「弦巻川」は、都市化に伴い生活排水が流入するようになった。写真は暗渠(あんきょ・地下水路)化工事の様子。【画像は昭和初期】


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※本ページでは、現在の豊島区の池袋一帯と周辺地域(目白、雑司が谷、長崎など)、歴史上関連性の深い新宿区の一部(落合一帯)を取り上げている。



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