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自然豊かな「千里丘陵」


桃林の中、「旗振り通信」の中継地だった「三本松」 MAP 1

現在の千里山西三丁目のあたりはかつて「河田山(こうだやま)」と呼ばれる桃の名所で、「三本松」と呼ばれていた。ここには「旗振り通信」の中継地があり、標高83mの見通しのきく場所で、「河田山」一帯が花見客で賑わった明治期には、絶好の眺望の地として知られていた。「旗振り通信」は江戸時代中期から大正初期まで、堂島の米相場を手旗信号で早く知らせるための手段であった。やがて電話の普及とともに、この通信は行われなくなった。写真は大正期の「三本松」。【画像は大正期】

最高所は削られ標高は約79mと低くなっているが、現在でも柿畑として利用され、果樹園の名残をとどめている。

「垂水神社」には、『万葉集』に詠まれた「垂水の滝」 MAP 2

「千里丘陵」の南端に鎮座する「垂水神社」は、「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」を主祭神とし、孝徳天皇の御代(645~654年)にこの地の領主だった阿利真公(ありまのきみ)により創建されたと伝わる。境内には「垂水の滝」があり、滝の水は干ばつに苦しむ「難波長柄豊碕宮」に送られて人々を救い、後には『摂津名所図会』に「清冷甘味、諸病を治す」と記され、新田開発にも利用された。また、『万葉集』にある「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」は志貴皇子(しきのみこ)がこの滝を詠んだものとして境内に歌碑が建てられている。写真は、大正期に撮影された拝殿。【画像は大正期】

現在の拝殿は、1974(昭和49)年に造営されたもの。屋根が瓦から銅板になっている。

「山田寺」とも呼ばれて栄えた「佐井寺」 MAP 3

「佐井寺」は「山田寺(さんでんじ)」とも呼ばれ、行基が土中から栴檀(せんだん)の「十一面観音像」を掘り出し、七堂伽藍を建てたとされる寺院。行基は水の乏しかったこの地で、祈祷により「佐井の清水」を湧出させたともいわれており、「垂水の滝」とともに「吹田三名水」の一つに挙げられている。写真は、大正期の境内。写真右手にある鐘はこの地を治めていた京都所司代・板倉重宗が1649(慶安2)年に寄進したもので、鐘楼も同時期に建立されたものと考えられる。【画像は大正期】

鐘楼は江戸前期の建築様式であり、現存する近世の鐘楼としては大阪府下で二番目の古さとされている。現在の本堂は1941(昭和16)年に完成したもの。


千里の特産品だった桃・筍・松茸

大正期の「千里丘陵」南端。現在の「豊津駅」付近

大正期の「千里丘陵」南端。現在の「豊津駅」付近

江戸時代に新田開発された「千里丘陵」は、気候や地質的に水田には向いていなかった。そのため、農民たちは桃などの果樹や筍に目をつけ、栽培を行った歴史がある。

桃は江戸末期から現在の上新田・下新田のあたりで栽培が始まった。写真に見える垂水付近は一面桃林が広がり、春には多くの花見客が訪れた。たわわに実った桃の実は、大阪の「天満市場」に出荷されたほか、缶詰にも加工され、売り出されていった。しかし、大正初期に害虫が大発生して、多くの地区で桃が全滅し、筍作りへの転換を余儀なくされた。

1940(昭和15)年頃、上新田地域の筍狩りの様子

1940(昭和15)年頃、上新田地域の
筍狩りの様子

筍栽培も江戸時代から盛んになり、昭和期には青果用だけでなく缶詰も生産された。筍は千里の土地に適しており、特に山田地区の「銀筍」は有名であった。色は白くて柔らかく、しかも歯ごたえがあり、阪神間の別荘地で人気があり、通の中には「日本一」と言う人もいた。

また、「千里丘陵」には、赤松が多く生え、秋には松茸が多く採れた。人々は、松茸狩りを楽しみ、食べきれないほどの松茸を収穫していたという。

こうした果樹園や筍、赤松の多くはニュータウン開発などの市街地化で姿を消したが、市内の一部では桃づくりが行われ、竹林も残っており当時の面影を留めている。


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