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江戸期までの立川


市内で唯一の国宝がある「普済寺」MAP __

「普済(ふさい)寺」は、1353(文和2)年に領主の立川氏が居城内に菩提寺として建立したことに始まる。戦国時代には、高幡城主の平重能や、後北条氏の幕下となり勢力を挽回した立川氏の外護を受けるが、1590(天正18)年の豊臣軍の攻撃により「普済寺」も兵火に遭い、大半の建物・寺宝を焼失した。江戸前期頃から建物の再建が始まり、江戸後期には『江戸名所図会』にも掲載される名所となった。【画像は明治後期~大正前期】

1995(平成7)年の火災で本堂などを焼失したが、再建前の発掘調査では建物の遺構の発見など数々の成果が上がった。本堂は2004(平成16)年再建。写真は「根川緑道」から望む「立川崖線」上の「普済寺」。崖は1972(昭和47)年に崩壊を防ぐため改修された。 MAP __(撮影地点)

「六面石幢(ろくめんせきとう)」は、1361(延文6)年の建立。仁王と四天王が刻まれた板石を柱状に組み合わせたもので、1913(大正2)年に国宝に指定。立川市内にある唯一の国宝で、1954(昭和29)年にコンクリート製の覆屋が造られた。【画像は明治後期~大正前期】

「日野の渡し」と「日野橋」

「甲州街道」は徳川家康の江戸入府に際し整備され、江戸前期の貞享年間(1684~1688年)に、柴崎と日野の間にあった「多摩川」の「日野の渡し」が正式な渡しとなった。図は江戸末期に描かれた『調布玉川画図』の一部。左下部の「芝崎村」と上部の「甲州道中 日野宿」の間に、「多摩川」の渡舟「日野の渡し」が描かれている。【図は1845(弘化2)年】

写真は「日野の渡し」跡地付近に立てられている「日野の渡し碑」。奥に延びる通りが「旧甲州街道」となる。 MAP __(日野の渡し碑)

1926(大正15)年に道路橋の「日野橋」が開通、「日野の渡し」は廃止された。写真は昭和初期頃の「日野橋」。【画像は昭和初期頃】

写真は2018(平成30)年撮影の「日野橋」。1964(昭和39)年の「東京オリンピック」で自転車競技のロードレース団体戦のコースの一部となり、大規模な改修工事が行われ歩道が両側に設置された。2019(令和元)年の台風での増水により、橋脚が洗掘により沈下するなどの被害に遭い、翌2020(令和2)年、復旧されるとともに「日野橋架替事業」が開始となり、2032年の完了予定で工事が進められている。 MAP __【画像は2018(平成30)年】

「砂川新田」の「砂川分水」と「阿豆佐味天神社」

「砂川新田」は、1627(寛永4)年に「五日市街道」と「残堀川」が交差するあたりから開発が進められ、1657(明暦3)年に「砂川分水」が作られると新田開発が本格化、短冊状の地割となった。写真は1961(昭和36)年撮影の砂川一番付近の「砂川分水」。 MAP __【画像は1961(昭和36)年】

現在は「砂川用水」と呼ばれており、水路はこのあたりで「五日市街道」の南側(写真の左側奥)から北側(右側手前)に流れを変える。暗渠化されているため水面は見えないが、歩道の幅の違いに、かつての水路を感じることができる。

砂川の「阿豆佐味天(あずさみてん)神社」は、現在の西多摩郡瑞穂町にある892(寛平4)年創建の式内社「阿豆佐味天神社」を勧請し、1629(寛永6)年に「砂川新田」の鎮守として創建された。写真は昭和20~30年代の撮影で、米兵向けと思われる英語の注意書きが掲示されている。 MAP __【画像は昭和20~30年代】

立川市在住のジャズピアニスト山下洋輔氏が、飼い猫が行方不明になった際、「阿豆佐味天神社」で願掛けをしたところ戻ってきたという。これが1987(昭和62)年にエッセイ、近年はブログなどで紹介され、愛猫家も多く訪れるようになった。現在では境内社の「蚕影神社」が「猫返し神社」としても知られるようになり、遠方からも参拝客が訪れる。


柴崎村と砂川村

「諏訪神社」

明治後期~大正期の「諏訪神社」。この当時の社殿は1670(寛文10)年築で、市内最古の木造建築物であったが、1994(平成6)年に不審火で焼失、現在の社殿は2002(平成14)年に再建されたもの。
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現在の立川市は、江戸時代には、おおよそ南半分が柴崎村、北半分が砂川村であった。

柴崎村は、811(弘仁2)年に「諏訪神社」が祀られた頃にその原形ができたと考えられている。平安時代末期頃、武士の立川氏が勢力を持ち、1353(文和2)年に「普済寺」が建立された。漢字は異なるが、「立河」という地名は鎌倉時代にまで遡ることができると考えられており、戦国時代には「立河郷芝崎村」と呼ばれた。江戸時代になると、柴崎村は幕府の直轄地となり、貞享年間(1684~1688年)には、柴崎と日野の間にあった「多摩川」の「日野の渡し」が「甲州街道」の正式な渡しとなった。柴崎村は1881(明治14)年に立川村へ改称、1923(大正12)年に立川町となり、1940(昭和15)年に立川市が誕生した。

砂川村は、江戸初期の「砂川新田」を発祥としている。徳川家康の江戸入府後、「江戸城」の改修や町の拡大のため、木材・炭などを運ぶ「五日市街道」が整備された。「砂川新田」は、1627(寛永4)年、その「五日市街道」と「残堀川」が交差していたあたりから開発が進められたという。砂川とは「残堀川」のことで、水量が少なく「砂の川」に見えたためともいわれる。1629(寛永6)年に鎮守として「阿豆佐味天神社」が、1650(慶安3)年に「流泉寺」が創建された。その後「玉川上水」が整備され、1657(明暦3)年に「五日市街道」に並行して「砂川分水」が作られると、「砂川新田」の開発も本格化、短冊状の地割となった。1694(元禄7)年までに、一番から八番までの組が設置され、1736(元文元)年に砂川村となった。戦後の1954(昭和29)年に砂川町となり、1963(昭和38)年に立川市へ編入された。



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※「甲州街道」は江戸時代には「甲州道中」と呼ばれていたが、本文内では「甲州街道」で統一して表記している。
※本ページでは「多摩都市モノレール」は一般的に使用されている「多摩モノレール」と表記している。



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