明治後期~大正期の「諏訪神社」。この当時の社殿は1670(寛文10)年築で、市内最古の木造建築物であったが、1994(平成6)年に不審火で焼失、現在の社殿は2002(平成14)年に再建されたもの。
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現在の立川市は、江戸時代には、おおよそ南半分が柴崎村、北半分が砂川村であった。
柴崎村は、811(弘仁2)年に「諏訪神社」が祀られた頃にその原形ができたと考えられている。平安時代末期頃、武士の立川氏が勢力を持ち、1353(文和2)年に「普済寺」が建立された。漢字は異なるが、「立河」という地名は鎌倉時代にまで遡ることができると考えられており、戦国時代には「立河郷芝崎村」と呼ばれた。江戸時代になると、柴崎村は幕府の直轄地となり、貞享年間(1684~1688年)には、柴崎と日野の間にあった「多摩川」の「日野の渡し」が「甲州街道」の正式な渡しとなった。柴崎村は1881(明治14)年に立川村へ改称、1923(大正12)年に立川町となり、1940(昭和15)年に立川市が誕生した。
砂川村は、江戸初期の「砂川新田」を発祥としている。徳川家康の江戸入府後、「江戸城」の改修や町の拡大のため、木材・炭などを運ぶ「五日市街道」が整備された。「砂川新田」は、1627(寛永4)年、その「五日市街道」と「残堀川」が交差していたあたりから開発が進められたという。砂川とは「残堀川」のことで、水量が少なく「砂の川」に見えたためともいわれる。1629(寛永6)年に鎮守として「阿豆佐味天神社」が、1650(慶安3)年に「流泉寺」が創建された。その後「玉川上水」が整備され、1657(明暦3)年に「五日市街道」に並行して「砂川分水」が作られると、「砂川新田」の開発も本格化、短冊状の地割となった。1694(元禄7)年までに、一番から八番までの組が設置され、1736(元文元)年に砂川村となった。戦後の1954(昭和29)年に砂川町となり、1963(昭和38)年に立川市へ編入された。