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秀吉の「大坂城」・徳川の「大坂城」

1583(天正11)年、豊臣秀吉によって壮麗な「大坂城」が築かれた。しかし、わずか32年後の1615(慶長20)年、「大坂夏の陣」で「大坂城」は焼失する。二代将軍・徳川秀忠の命により、大規模な「大坂城」が1629(寛永6)年に完成した。


昭和の復興天守閣 MAP __

昭和初期に、大阪市長・関一によって天守閣の再建計画が発表されると、「住友財閥」の住友吉左衛門による25万円の寄贈を筆頭に、子ども達がためた小遣いの10銭単位の寄付に至るまで、大阪市民がこぞって寄付金を寄せた。その結果、わずか半年間で目標の150万円に達した。こうして1931(昭和6)年、三代目の復興天守閣が完成した。【画像は昭和30年代頃】

「太平洋戦争」の空襲にも、天守閣は持ちこたえた。現在の写真を見ると、高齢者用のエレベーターは増設されているが、戦前とほとんど同じ姿を残している。

「京橋」 江戸期の大坂の玄関口 MAP __

「寝屋川」に架かる「京橋」は、江戸時代は大坂の玄関口として賑わった。大坂の魚市場といえば、堀江の「雑喉場(ざこば)」が有名だが、京橋の北詰には、川魚を扱う魚市場が大正初期まで開かれていた。【画像は明治後期】

水道橋となった「京橋」の上には現在、歩道橋の「大坂橋」が架けられている。右隅にかすかに見えるのは「大阪城」天守閣。

「乾櫓」現存する大阪城最古の建築物 「伏見櫓」今はなき「大阪城」最大の三重櫓 MAP __

江戸時代の1626(寛永3)年に建てられた二代目の天守閣は、完成してわずか39年後に落雷で焼失した。つまり、江戸時代の大半は、「大坂城」には天守閣がなかった。そのため、「大坂城」の北にあった「伏見櫓」が、「大坂城」の中で最も大きい櫓だった。「伏見櫓」という名は、解体された「伏見城」の櫓が移築されたものという伝説に基づいている。写真では左奥に「伏見櫓」が、右手前に「乾櫓」が見える。【画像は明治後期~大正前期】

「伏見櫓」は1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまったが、「乾櫓」は生き残った。「乾櫓」は徳川時代初期に建てられており、「千貫櫓」と並んで現存する「大阪城」の最古の建築物である。

東洋一の軍事工場「大阪砲兵工廠」 MAP __

写真は、天守閣から北西の旧「二の丸」を眺めたもの。戦前は、砲兵工廠の軍事工場や関連施設が、旧「二の丸」周辺を埋め尽くしていた。【画像は昭和初期】

砲兵工廠跡は今では緑多い「大阪城公園」の一部となり、すっかり様子は一変した。下方は「大阪城」の内堀。右下隅に、秀頼、淀君が自害した所といわれる「山里曲輪」(現「刻印石広場」)が少し見える。


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※「おおさか」を漢字で書くとき「大阪」と「大坂」の表記がある。江戸時代は、「大坂」と書かれることが多かったが、大坂の「坂」の字が「土に反る」と読めるので縁起が悪いという理由で(諸説あり)、明治時代以降「大阪」に統一された。本文中では、江戸時代以前は「大坂」、明治時代以降は「大阪」に便宜上統一した。

※企画制作協力/画像古地図提供 / 原島 広至



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