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鎌倉時代に始まった都市整備


源頼義が勧請し、頼朝が遷座した「鶴岡八幡宮」 MAP __

源氏の氏神として崇敬された「鶴岡八幡宮」は、奥州を平定した源頼義が1063(康平6)年、「石清水八幡宮」を由比ガ浜に勧請したことに始まる。1180(治承4)年に源頼朝が現在地に移し、1191(建久2)年に現在に受け継がれる上下両宮の体裁となった。【画像は大正期】

現在の本殿は1828(文政11)年、江戸幕府第十一代将軍の徳川家斉が造営した。国の重要文化財に指定されている。

「鶴岡八幡宮」へ続く参道「若宮大路・段葛」 MAP __

由比ガ浜から「鶴岡八幡宮」へ続く鎌倉のメインストリートである「若宮大路」は、源頼朝が1182(寿永元)年、妻・北条政子の安産祈願のための参道として造営したと伝えられている。中世の頃の幅員は約33mと現在よりも広かった。中央部に葛(かずら)石を置いて一段高くしたことに始まる「段葛(だんかずら)」は、高貴な人のための通路として造られたといわれ、現在は歩道となっている。明治初期までは「鶴岡八幡宮」の社頭から海岸に近い「一の鳥居」まで続いていた。【画像は1958(昭和33)年】

写真は大正期の「段葛」。【画像は大正期】

現在、「段葛」は「三の鳥居」から「二の鳥居」までの約500mが残っている。

三方の山に整備された「切通」

鎌倉は、南は「相模湾」、三方は山に囲まれており、天然の要害といえる地形となっている。鎌倉幕府は防衛の機能を持たせつつ、陸路の交通利便性を向上させるため、山稜の尾根を垂直に掘り下げて底面を路面とする「切通」を整備した。江戸初期の史料には「鎌倉七口」として「名越(なごえ)坂」「朝夷奈(あさいな)坂」「巨福呂(こぶくろ)坂」「亀ヶ谷(かめがやつ)坂」「仮粧(けわい)坂」「大仏坂」「極楽寺坂」の記述も見られる。写真は1960(昭和35)年撮影の「名越切通」。
MAP __(名越切通) MAP __(朝夷奈切通) MAP __(巨福呂坂) MAP __(亀ヶ谷坂) MAP __(仮粧坂) MAP __(大仏切通) MAP __(極楽寺坂切通) 【画像は1960(昭和35)年】

「名越切通」は1966年(昭和41年)、「朝夷奈切通」「巨福呂坂」「亀ヶ谷坂」「仮粧坂」は1969(昭和44)年、「大仏切通」は1977(昭和52)年に国の史跡に指定された。1996(平成8)年には「鎌倉街道 七口切通」として、文化庁の「歴史の道百選」に選定されている。

日本最古の築港遺跡「和賀江島」 MAP __

1232(貞永元)年、勧進(かんじん)聖人往阿弥陀仏が鎌倉幕府に願い出て、三代執権・北条泰時らの協力のもと「和賀江島(わかえじま/わかえのしま)」を築港、幕府直轄の港とした。のちに関所として「極楽寺」が管理し、関米(税)を徴収。宋(中国)との貿易の拠点となり大いに賑わっていた。写真は明治後期、手前に写る「飯島崎」から「和賀江島」方面を撮影している。【画像は明治後期】

江戸時代までは港として利用されていたが、高波や震災などにより破損。干潮時には姿を現すものの、満潮時には水面下に没する。日本最古の築港遺跡「和賀江嶋」として、1968(昭和43)年に国の史跡に指定されている。写真は干潮時の撮影で、「飯島崎」の周りに「和賀江島」築港跡の玉石の石積が見える。中央左奥の島は「江の島」。


鎌倉幕府が進めた政策 都市と寺社の整備

明治後期の「円覚寺」鐘楼

写真は「円覚寺」の「洪鐘(おおがね)」。「円覚寺」の開基でもある北条時宗の子・貞時(鎌倉幕府九代執権)が、鎌倉後期の1301(正安3)年に寄進した高さ259.5cmの巨大な梵鐘で、現在は国宝となっている。
【画像は明治後期】
MAP __(円覚寺 洪鐘)

明治後期の「建長寺」山門

「建長寺」は1253(建長5)年、鎌倉幕府第五代執権・北条時頼により創建された寺院で「鎌倉五山」第一位に列せられている。写真は江戸中期の1775(安永4)年に再建された山門。
【画像は明治後期】
MAP __(建長寺 山門)

鎌倉の歴史は、源氏の氏神である「鶴岡八幡宮」の創設に始まるといえる。源頼義が京都から「石清水八幡宮」を勧請すると、その子孫である源頼朝は、平家を打倒し鎌倉を日本の政治の中心地と定めた。三方を山に囲まれ、南に海を控えた要害性の高い地形を活かしてまちづくりを進めていった。まず山稜に囲まれた平地に「鶴岡八幡宮」を置き、中心軸である「若宮大路」を造営。さらにその周囲にも道路網を整備し、平地を囲む山稜部には「朝夷奈切通」をはじめとする「切通」を開削し、周囲との交通路を確保した。同時に「切通」は防衛の砦としての役割も果たしていた。

武家政権を樹立した頼朝は支配強化を目的に積極的に宗教政策に取り組み、「杉本寺」や「荏柄天神社」を再建・建立するなど鎌倉の寺社を重要視した。頼朝の没後、妻の北条政子が「寿福寺」を建立し禅宗興隆の礎を築くと、幕府の政権を担った北条氏の執権たちも「建長寺」「円覚寺」などを創建し、宗教政策を展開。こうして幕府に保護・建立された寺社は、供養の場としてだけでなく、武家の精神修養や学問・文化修得の場にもなり、武家文化の発信源となっていった。また、戦時には防衛拠点としての役割も果たした。

こうして築かれた鎌倉の都市構造や文化は、現在に継承されしっかりと息づいている。



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