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晴海の歴史

隅田川口改良工事」は昭和期に入っても進められ、1931(昭和6)年に「4号地」(「月島四号地」)の埋立てが完成した。当初は新月島と呼ばれたが、1937(昭和12)年に「いつも晴れた海を望む」という希望が込められ、町名「晴海町」(現・晴海)が制定された。1933(昭和8)年には「東京市庁舎」の建設が決定されるも翌年立ち消えに、1940(昭和15)年には「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」の開催が決まっていたが戦争などのため幻に終わった。「太平洋戦争」中は陸海軍の倉庫や資材置き場として使用され、戦後は米軍に接収、1953(昭和28)年より段階的に返還が始まり、1958(昭和33)年に全面返還。この頃から晴海の街の本格的な発展が始まった。


幻の「東京市庁舎」

東京市は1889(明治22)年に誕生したが、「東京市庁舎」は、丸の内の「東京府庁舎」の一部を間借りして始まり、その後、業務が増えると周辺の建物に分散して事務を行うようになっていた。大正期になると、独自の「東京市庁舎」建設が検討されるようになり、1933(昭和8)年に「4号地」(現・晴海)に「東京市庁舎」の移転を決定した。図は「東京市庁舎」の移転予定地を記した地図。黒塗りの部分が市庁舎予定地で、その右側(南西側)に地下鉄の計画も描かれている。【図は1933(昭和8)年】

移転決定の翌年、1934(昭和9)年に設計コンペ「東京市庁舎建築設計懸賞競技」が行われた。171通の応募があり、審査の結果、一等賞は渡辺仁氏の建築事務所に勤めていた宮地二郎氏の作品(図はそのパース)となった。審査委員長は、現在の「築地本願寺」などを設計した伊東忠太氏で、三等賞には前川國男氏、選外佳作に関根要太郎氏、矢部金太郎氏が入選するなど、著名な建築家も多く参加していた。【図は1934(昭和9)年】

しかし、「東京市庁舎」の「4号地」への移転には強い反対があり、同1934(昭和9)年、移転は取り消しとなり、実現することはなかった。現在、市庁舎の予定地だった場所は「晴海アイランド トリトンスクエア」の一部(写真中央付近の高層ビルのあたり)となっている。一等賞を獲得した宮地二郎氏は、戦後には名古屋の「中日ビル」(1966(昭和41)年竣工、2019(平成31)年に建替えのため閉館)の設計責任者も務めている。
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幻の「日本万国博覧会」

1929(昭和4)年、民間から万国博覧会開催の建議があり、東京府知事、東京市長などの賛同を得て、1934(昭和9)年に「日本万国博覧会協会」が設立され、皇紀(紀元)二千六百年の奉祝行事として、「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」(以下「万博」)を1940(昭和15)年に開催することになった。図は1938(昭和13)年、当時の人気鳥瞰図絵師、吉田初三郎氏が描いたもの。メイン会場は「東京市庁舎」の建設が中止となった晴海(「4号地」、図では中央の島)と、昭和前期までに埋立てが行われた豊洲(「5号地」、右下の島)。そのほか、「台場公園」(左下の島)、「東京港防波堤」(「台場公園」と豊洲を結ぶ帯状の島)、さらに横浜市の「山下公園」などを会場とする計画であった。「万博」に合わせて建設中だった、築地・月島を結ぶ「勝鬨橋」も描かれている。しかし、1937(昭和12)年に始まった「日中戦争」が長期化すると中止論が高まり、翌年7月に、開催延期が決定した。 【図は1938(昭和13)年】

写真は「万博」開催に先立ち、1938(昭和13)年に晴海に建設された事務局棟。開催延期により、陸軍の「東京第一陸軍病院月島分院」へ転用されたのち、「太平洋戦争」中の空襲により焼失した。
MAP __(事務局棟跡地)【画像は1938(昭和13)年】

写真は現在の「万博」の事務局棟の跡地付近。写真右は1975(昭和50)年に「ホテル・デン晴海」として竣工した建物で、現在もホテルとして営業を続けている。

「晴海団地」の建設 MAP __(晴海第一公園)

「東京市庁舎」の建設予定地で、「万博」の開催予定地でもあった場所の一角には、戦後の1957(昭和32)年に「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)の「晴海団地」が建設された。写真は1963(昭和38)年頃の撮影。左奥に見える15号館(一般には「晴海団地高層アパート」と呼ばれた)は前川國男氏の設計による10階建ての高層建築で、公団住宅の高層化へ向けての試金石でもあった。【画像は1963(昭和38)年頃】

「晴海団地」は1996(平成8)年から翌年にかけて再開発が行われ、現在はタワーマンション、オフィス、商業施設などからなる「晴海アイランド トリトンスクエア」となっている。写真は同地点付近からの現在の様子。

「晴海団地高層アパート」があった場所付近に整備された「晴海第一公園」には、アパートで使われていた手すり部分が移設・保存されている。

「東京港」の貨物専用鉄道

「東京港」の貨物専用鉄道は、1941(昭和16)年の「東京港」開港の頃から整備が進められたが、正式に開業したのは戦後になってからであった。1950(昭和25)年に「豊洲石炭埠頭」が供用開始となり、1953(昭和28)年に「東京港貨物専用鉄道」の深川線、越中島・豊洲石炭埠頭間が開業。1955(昭和30)年に豊洲物揚場(ものあげば)線の一部区間、1957(昭和32)年には晴海線も開通した。写真は開通日の晴海線の様子。
MAP __【画像は1957(昭和32)年】

「東京港」の貨物専用鉄道の輸送量は、1965(昭和40)年頃をピークに、その後はモータリゼーションの進展に伴い減少。1985(昭和60)年、一部区間から廃止が始まり、1989(平成元)年の晴海線廃止をもって全廃となった。写真は現在の同地点の様子。開業当時の写真にある倉庫(写真右奥)は、現在は使用されていないが建物は残っている。写真手前では「中央区晴海特別出張所(仮称)等複合施設」の建設が進められている。ここには「東京2020オリンピック・パラリンピック」(以下「東京2020大会」)の時、「選手村ビレッジプラザ」が置かれていた。

写真は「晴海運河」に架かる晴海線「晴海鉄道橋」を渡る貨物列車。「晴海鉄道橋」は晴海線開通の1957(昭和32)年より、廃止となった1989(平成元)年まで使用された。先頭のディーゼル機関車は「東京都港湾局」のもので、「晴海号」のヘッドマークを付けている。晴海線は主に小麦、大豆、セメントなどを運んでいた。
MAP __【画像は昭和後期】

晴海線の廃止に伴い「晴海鉄道橋」は閉鎖されたが、形はそのまま残された。近年、歴史的な価値が評価され遊歩道として整備されることになり、現在は耐震補強工事が進行中。完成後は「春海橋公園」の公園施設として一体的に管理運営される。対岸に見えるのは江東区豊洲二丁目の高層マンション。

さまざまな見本市やイベントの会場となった「東京国際見本市会場」 MAP __

晴海は戦前に埋立てが完成するも、前述のような経緯から、戦後を迎えるまで大きな開発は行われなかった。1951(昭和26)年以降、埠頭の整備が本格化し、1955(昭和30)年に「晴海埠頭」が開業した。同年、東京で「日本国際見本市」(のちの「東京国際見本市」)が開催され、晴海は仮設の第二会場となった(第一会場は大手町)。1959(昭和34)年、晴海に「東京国際見本市会場」(通称「晴海見本市会場」)が建設され、「東京国際見本市」「東京モーターショー」をはじめ、さまざまな見本市やイベントの会場となり、1981(昭和56)年には初の「コミックマーケット」も開催された。写真は1965(昭和40)年の「東京国際見本市会場」の「東館」(通称「ドーム館」)。【画像は1965(昭和40)年】

「東京国際見本市会場」は施設の老朽化などから、有明に後継となる「東京国際展示場」(通称「東京ビッグサイト」)の建設が進められ、1996(平成8)年にその役目を譲り閉場となった。閉場の際に作られた記念碑は、現在は、跡地の一部に2001(平成13)年に建設された「東京都中央清掃工場」の入口付近に設置されている。跡地では「晴海五丁目西地区第一種市街地再開発事業」が行われており、一部建物は「東京2020大会」で「選手村」として利用された。現在は総戸数5,632戸の都心最大規模の巨大プロジェクト「HARUMI FLAG」として建設が進められており、2024年~2025年に入居開始予定となっている。写真は「東館」跡地の現在の様子。

「晴海埠頭」と「晴海客船ターミナル」 MAP __(晴海客船ターミナル跡地)

晴海では1951(昭和26)年以降、埠頭の整備が本格化し、1955(昭和30)年に「晴海埠頭」が開業した。1964(昭和39)年には「晴海客船ターミナル」の前身となる「晴海船客待合所」が開業となった。写真は昭和40年代後半頃の「晴海埠頭」。一番手前に係留されている船は二代目の南極観測船の「ふじ」。1965(昭和40)年に進水、1983(昭和58)年まで南極観測船としての任務を遂行した。現在は「名古屋港ガーデンふ頭」に係留・保存され、1985(昭和60)年より「南極の博物館」として一般公開されている。【画像は昭和40年代後半頃】

過去の写真で「ふじ」が係留されていた場所には、1991(平成3)年、「東京港」の開港50周年を記念して「晴海客船ターミナル」が開設され、東京の海の玄関口として、国内外の豪華客船が接岸するようになった。写真は「レインボーブリッジ」から2019(令和元)年に撮影した晴海の様子で、写真左に見える特徴的な四角錐の屋根の建物が「晴海客船ターミナル」。2020(令和2)年、江東区青海に「東京国際クルーズターミナル」が開業したため、「晴海客船ターミナル」は2022(令和4)年に廃止、跡地には公園などが整備される予定となっている。


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※本ページでは明治期の月島の埋立て地「一号地」~「四号地」を「月島一号地」~「月島四号地」、大正期の「第三期隅田川口改良工事」以降の「第4号埋立地」~を「4号地」~と表記している。



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