現在の川越市域は、市中心部が広がる「武蔵野台地」の東北端にあたる「仙波台地」と、「仙波台地」と「入間川」を挟んで広がる「入間台地」、「荒川」の沖積地「荒川低地」からなる。「荒川低地」一帯は、縄文時代前期の「縄文海進」により、湾状の海(近年の研究では「古入間湾」などと呼ばれる)となっていた。かつての海岸線であった台地の際には「小仙波貝塚」などの遺跡も発見されている。図は川越付近の地形。
MAP __(小仙波貝塚)
川越一帯は、古代より地域の中心地であったと考えられており、平安中期から南北朝時代にかけては河越氏の領地「河越荘」となった。室町時代に入ると「河越城」が築城され、江戸時代には「新河岸(しんがし)川」の舟運により繁栄し、「川越藩」は最盛期には17万石の大藩までになった。江戸期の城下町の賑わいは、明治期にも引き継がれ、埼玉県下最大の商業都市として発展。明治期の大火をきっかけとして蔵造の町並みも誕生した。鉄道の開通で街の中心地が少しずつ南へ移っていったこともあり、現在は明治・大正・昭和の各時代の建物も多く残り、歴史を感じられる街として、観光客でも賑わう都市になった。