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中世までの川越


川越の地形と貝塚

現在の川越市域は、市中心部が広がる「武蔵野台地」の東北端にあたる「仙波台地」と、「仙波台地」と「入間川」を挟んで広がる「入間台地」、「荒川」の沖積地「荒川低地」からなる。「荒川低地」一帯は、縄文時代前期の「縄文海進」により、湾状の海(近年の研究では「古入間湾」などと呼ばれる)となっていた。かつての海岸線であった台地の際には「小仙波貝塚」などの遺跡も発見されている。図は川越付近の地形。
MAP __(小仙波貝塚)

「川越」の地名の発祥地 MAP __(河越館跡史跡公園)

現在の川越市上戸周辺には、飛鳥時代から平安時代にかけては官道の一つ「東山道 武蔵路」が通り、「入間郡衙」も置かれていたともいわれ、一帯の中心地となっていたと考えられている。平安中期から南北朝時代にかけては豪族・武士の河越氏の領地「河越荘」となり、居館「河越館」も置かれた。その後、戦国時代には砦などに利用されたと考えられている。河越氏が居館の一角に置いた持仏堂を基とする密教寺院「淨興密寺」が、1305(嘉元3)年に「時宗」へ改宗、「常楽寺」へ改称したといわれる。図は江戸後期、『新編武蔵風土記稿』に描かれた『常楽寺境内之図』。【図は江戸後期】

河越氏の「河越」は「かわごえ」という地名の発祥ともいわれ、鎌倉時代には「河肥」と表記されることもあった。室町時代に入ると「川越」の表記も見られるようになり、江戸時代に入ると「川越」の表記が一般化された。「河越館跡」は、1984(昭和59)年に「川越館跡」として国の史跡に指定となり、2009(平成21)年には写真の「河越館跡史跡公園」が開園した。写真奥に「常楽寺」の境内林が見える。

写真は1960(昭和35)年頃の「常楽寺」の山門。門前に「河肥氏館址の記」の案内板が見える。
MAP __【画像は1960(昭和35)年頃】

写真は現在の「常楽寺」の山門。

太田道真・道灌父子が築城した「河越城」

室町時代に入ると、河越氏に代わり上杉氏が一帯を支配するようになった。「河越城」「江戸城」「岩槻城」の三つの城は、扇谷上杉氏の命により、古河公方・足利氏に対する備えとして重臣の太田道真・道灌父子が1457(長禄元)年に築いたといわれる。「河越城」は三芳野(現在の「川越城址」)に築城された。

1537(天文6)年、北条氏綱は「河越城」を攻略し、以降北条氏の拠点となった。1545(天文14)年からの「河越城の戦い」では山内・扇谷の両上杉氏が奪還を目指したが、翌年の「河越夜戦(よいくさ)」(「東明寺夜戦」とも呼ばれる)の奇襲で北条氏が勝利。「河越城」は北条氏の主城の一つとなり、この頃から城下町も発展した。写真は「東明寺」境内に建てられている「川越夜戦跡」の碑。
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「河越城」の城代・大道寺氏が創建した「蓮馨寺」 MAP __

戦国時代~安土桃山時代の河越は、北条氏の下で「河越夜戦」の功労者でもあった大道寺氏が統治した。「河越城」の城代となった大道寺政繁は、母を弔うため「蓮馨(れんけい)寺」を1549(天文18)年に創建、その後、門前町も発展した。江戸初期の1602(慶長7)年には「浄土宗」の僧の学問所「関東十八檀林」の一つとなり、多くの学僧を輩出している。図は江戸後期に描かれた「蓮馨寺」。門前町は「四門前」の一つとして賑わった。【図は江戸後期】

写真は現在の「蓮馨寺」入口。1933(昭和8)年、境内を貫き、現「仲町交差点」と現「本川越駅」方面を結ぶ「中央通り」(写真奥から手前に向かう通り)が開通し、通り沿いも商業地として発展した。門前の「立門前通り」と「中央通り」には、現在も昭和初期の建物が多く残る。近年は「川越昭和の街」として保存・活性化を目指すまちづくりが行われている。


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※本ページでは、現在の川越市一帯を対象としている。



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