「東海道」を江戸から京へと上る際、相模国では通常は右手に「富士山」が見えるが、道が内陸方向へ向かう茅ヶ崎付近では左側に見えるため、江戸時代には「左富士」と呼ばれるようになった。歌川広重は『東海道五十三次名所図会』で「南湖の左富士」を描いている。「鳥居戸橋」を渡って、下町屋の家並みの見える街道風景を写し、絵の左奥に「富士山」が描かれている。昔から茅ヶ崎名所のひとつとして巷間に知られていた。
現在の茅ヶ崎市域は、「相模原台地」の丘陵地帯と「相模川」により形成された「相模川低地」、および海の波・潮流により発達した砂丘地帯からなる。江戸時代には、「東海道五十三次」の「藤沢宿」と「平塚宿」の間にあって、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する菱沼、南湖といった立場(たてば)がある農村地帯だった。海に面する村々の漁場は、辻堂村の境から、西へ小和田村(菱沼村との入会地)、茅ヶ崎村(本村、十間坂、南湖)、柳島村の浜と続いていた。江戸中期の1728(享保13)年には、柳島村から片瀬村(現・藤沢市)にかけての海岸一帯に、主として大筒を対象とする幕府の「鉄砲場」(演習場)が設けられた。