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旧「東海道」、道の歴史


「東海道」の左手に見える「南湖の左富士」 MAP __

「東海道」を江戸から京へと上る際、相模国では通常は右手に「富士山」が見えるが、道が内陸方向へ向かう茅ヶ崎付近では左側に見えるため、江戸時代には「左富士」と呼ばれるようになった。歌川広重は『東海道五十三次名所図会』で「南湖の左富士」を描いている。「鳥居戸橋」を渡って、下町屋の家並みの見える街道風景を写し、絵の左奥に「富士山」が描かれている。昔から茅ヶ崎名所のひとつとして巷間に知られていた。【図は1855(安政2)年刊】

写真は昭和戦前期に「鳥井戸橋」とともに撮影された「左富士」。橋の下に流れる川は「千ノ川」。大正期までは蛇行していたが、流路が改修され、「富士山」は「鳥井戸橋」の下流方向に見える。【画像は昭和戦前期】

写真は現在の様子。左側の白いビルの右側に、うっすらと「富士山」が見える。橋の北側には「南湖の左富士之碑」が建てられている。

「南湖立場」の茶屋町

「東海道」の「藤沢宿」と「平塚宿」の間には、休息する場所として立場が複数あった。その中でも「南湖立場」は比較的規模が大きく、現在の地名にも残る茶屋町として栄えた。茶屋だけでなく旅籠もあり、その後も商店が開業するなど、このあたりの商業の中心地となった。写真は1927(昭和2)年に撮影されたもので、写真左に「田村呉服店」の看板が見える。
MAP __【画像は1927(昭和2)年】

1898(明治31)年に「茅ヶ崎駅」が開業し、大正期には製糸工場「純水館」が駅前に開設され、茶屋町にあった旅館や料理店なども駅前へ移転。賑わいは「南湖の茶屋町」から、駅北口より延びる通り(のちの「エメロード」)へ移っていった。「田村呉服店」は、現在「田村屋」として、駅に近い新栄町で営業を続けている。

「東海道」の立場であった「南湖の茶屋町」には、茶屋だけでなく旅籠もあった。「萩藩」や「加賀藩」などの大名行列も南湖の「松屋」という茶屋で休憩したという記録が残る。ほかにも「橘屋」「藤屋」「江戸屋」「布袋屋」といった茶屋があった。図は江戸後期、1806(文化3)年に描かれた『五海道其外分間延絵図並見取絵図』のうち、「東海道」の南湖付近。図の中央付近に「字南湖立場」と記されている。図の右上付近には「第六天」(現「第六天神社」)の文字も見える。
MAP __(第六天神社)【図は1806(文化3)年】

源氏が関東で最初に祀った神社「鶴嶺八幡宮」

平安中期の1030(長元3)年、源頼義が東征の際、京都の「石清水八幡宮」(大分の「宇佐神宮」説もあり)を勧請し、懐島郷(ふところじまごう)で戦勝祈願をしたことが「懐島八幡宮」の始まりといわれる。当初の社地は現在の茅ヶ崎市矢畑(やはた)、のちに「本社丘(ほんじゃがおか)」と呼ばれる所であった。矢畑の地名は「八幡(やわた)」に由来するともいわれ、「本社丘」の南側の道は「鎌倉古道」であったと考えられている。
MAP __(本社丘)

1063(康平6)年、源頼義は「懐島八幡宮」を鎌倉・由比へ勧請し「元八幡」と呼び、これがのちに「鶴岡八幡宮」となった。1089(寛治3)年、頼義の子・義家が「懐島八幡宮」を「鶴嶺八幡宮」として隣村の浜之郷へ遷座。矢畑の旧地の社は「本社宮(ほんしゃぐう)」と呼ばれるようになり、矢畑の鎮守となった。「鶴嶺八幡宮」は鎌倉時代初期になると源頼朝の命により再び整備されたが、その後、後北条氏の滅亡とともに荒廃。江戸前期になると徳川幕府より朱印地が与えられるなど再興され、「東海道」から延びる約800mの松並木の参道も整備された。「本社宮」は天保年間(1830年~1844年)に現在地の南隣に遷座、さらに1927(昭和2)年、「関東大震災」からの復興で現在地へ再遷座されている。
MAP __(本社宮)

図は江戸後期、1806(文化3)年に描かれた『五海道其外分間延絵図並見取絵図』のうちの「鶴嶺八幡宮」付近。図の下部に「東海道」が通り、そこから参道が分かれている。参道入口付近に架かる橋は「鳥居戸橋」。
MAP __(鶴嶺八幡宮)【図は1806(文化3)年】

「鶴嶺八幡宮」は現在も茅ヶ崎の総鎮守として信仰を集める。写真は現在の「一の鳥居」と参道。旧「東海道」から延びる参道と松並木は1969(昭和44)年には「鶴嶺八幡宮参道及び松並木」として、茅ヶ崎市の史跡・天然記念物に指定されている。

写真は明治後期~大正期、参道沿いの池から望む「鶴嶺八幡宮」の境内で、中央付近の建物が鐘楼。
MAP __(参道沿いの池)【画像は明治後期~大正期】

写真は現在の参道で、左手が池の跡地。「浜降祭」は「鶴嶺八幡宮」と「寒川神社」(相模國一之宮)が合同で行うみそぎの神事となっている。

漁場争論裁許により決定した浜境~「ラチエン通り」

江戸時代、小和田村と茅ヶ崎村の間では漁場をめぐる争いがあった。1663(寛文3)年、ついに幕府評定所の裁許を仰ぎ、翌1664(寛文4)年に「東海道」近くの「手白塚」(現在の「TOTO」のあたり)と「姥島」(通称「烏帽子岩」)を結んだ直線が小和田村と茅ヶ崎村の境とされた。これが漁場の浜境となり、村との郷境にもなっていった。図は裁許の内容が図示された『漁場争論裁許絵図』。
MAP __(烏帽子岩)【図は1664(寛文4)年】

小和田村と茅ヶ崎村の郷境には、明治期頃までは、明確な道はなかった。現在は「国道1号」沿いにある「TOTO」(旧「東洋陶器」)の東側あたりから「烏帽子岩」に向かって、通りが真っ直ぐに延びている。この通り沿いにドイツ人貿易商のルドルフ・ラチエンが住んでいたことから、通りは「ラチエン通り」と呼ばれている。写真は「ラチエン通り」とそこから望む「烏帽子岩」。
MAP __(ラチエン通り)

「相州炮術調練場」に延びる「鉄砲道」

1728(享保13)年、「江戸幕府」は柳島村から片瀬村(現・藤沢市)までの海岸一帯に「相州炮術調練場」(以下「鉄砲場」)を設けた。「鉄砲場」の中を東西に貫く道筋は「鉄砲道」と呼ばれ、その名前の由来は、伊豆の韮山で造った鉄砲を「柳島湊」に荷揚げして「鉄砲場」まで運んだからとも、遠距離射撃用にクロマツ砂防林を直線的に切り開いたからともいわれる。この「鉄砲道」は、半農半漁生活で「鉄砲場」内で耕作していた南湖住民にとって、農地へ通う生活道路でもあった。図は江戸時代に描かれた『相州炮術調練場麁図』の写し。茅ヶ崎付近は退色していてわかりにくいが、「相模川」の河口から片瀬付近まで、海岸沿いの広範囲に「鉄砲場」が拡がっていたことが示されている。【図は江戸中期~江戸後期】

江戸後期の1824(文政7)年より、佐々木卯之助が「江戸幕府」の大筒役(「鉄砲場」の管理責任者)となったが、「天保の大飢饉」の際、困窮した農民が立ち入り禁止の「鉄砲場」で耕作しているのを黙認したことで処罰され、1836(天保7)年に伊豆諸島の「青ヶ島」へ島流しとなった。「明治維新」後、1868(明治元)年に赦免されたが、高齢であったこともあり、その後も「青ヶ島」で暮らし、1876(明治9)年に死去した。茅ヶ崎の農民は、卯之助への感謝を忘れることはなく、1898(明治31)年、初代茅ヶ崎村長が発起人となり「佐々木氏追悼記念碑」を建立した。写真は「東海岸北五丁目交差点」で、右が旧「鉄砲道」、左が現在の「鉄砲道」。この分岐点に「佐々木氏追悼記念碑」(写真中央付近)が建てられている。
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※本ページでは、現在の茅ヶ崎市一帯を対象としている。
 特に明記していない場合、「震災」は「関東大震災」、「戦前」「戦時中」「終戦」「戦後」「戦災」の戦争は「太平洋戦争」のことを示している。



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