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熊本城と城下町



熊本の地形と「熊本城」

「熊本城」周辺の色別標高図

図は「熊本城」周辺の色別標高図。

現在の熊本市の中心部は、広大な「熊本平野」の北部に位置する。図の中央上部、平野に突き出す標高20~50mほどの台地が「京町台地」で、その南端、南に平野を望む要所が「茶臼山」。この「茶臼山」には、古代あるいは中世に寺院(「茶臼山廃寺」と呼ばれる)があったといわれる。

「隈本城」の名は、南北朝時代の古文書に初めて登場する(位置は明らかではない)。室町時代(15世紀後半)になると、菊池氏の一族・出田氏が「茶臼山」の北東部の一角に「千葉城」(現在の千葉城町付近)を築き、その後、領主が鹿子木氏に変わると「茶臼山」南部の一角に新たな「隈本城」(現在の古城町付近)が築城された。
MAP __(「千葉城址」の碑)MAP __(「古城跡」の説明板)

安土桃山時代に入り、豊臣秀吉が1587(天正15)年に「九州平定」し、肥後国は佐々(さっさ)成政へ領地として与えられ、「隈本城」は成政の居城となった。しかし、失政から翌1588(天正16)年に改易となり、肥後国は二分され北半国が加藤清正、南半国が小西行長の領地となった。

清正は入国すると、居城「隈本城」の改修、城下町の整備、河川改修などを行った。1600(慶長5)年の「関ヶ原の戦い」で西軍側に就いた行長が改易されると、南半国も清正の領地となり、清正は肥後一国の領主となった。また、清正はこの頃から「茶臼山」一帯に巨大な新城の築城に着手、1607(慶長12)年に完成となり「隈本城」の表記を「熊本城」へ変更した。その理由は、「隈」の部首に「畏(おそれる)」があることを嫌ったため、また「熊」が武将のイメージに合った強い動物であるためといわれる。清正による表記の変更がなければ、熊のキャラクター「くまモン」も誕生しなかったことであろう。


加藤清正が築城した「熊本城」 MAP __(大天守)MAP __(宇土櫓)

加藤清正により築城された「熊本城」は、「茶臼山」一帯に城郭を築き作られた平山城(丘陵などに築城された城のこと)。石垣は「清正流(せいしょうりゅう)」という、下部の傾斜は緩く、上部に向けて傾斜が強くなる反りがある独特な積み方となっている。図は昭和戦前期に発行された、「西南戦争」以前の「熊本城」全景の絵葉書。【画像は「西南戦争」以前】

「熊本城」には大天守(写真右)と小天守(写真中央)のほか、「第三の天守」とも呼ばれる「宇土櫓(うとやぐら)」(写真左)も築城当初からあった。小西行長が築いた「宇土城」の天守を、「熊本城」築城時に移築したものと江戸期よりいわれてきたが、1927(昭和2)年の解体修理の際の調査で移築の痕跡がなかったため、現在は否定されている。「宇土櫓」は築城当初からの建物として国の重要文化財にも指定されているが、2016(平成28)年の「熊本地震」で大きな被害を受けたため、2022(令和4)年から2026年までの予定で解体保存工事が行われており、復旧は2032年度を予定している。【画像は2022(令和4)年】


河川の治水・利水と城下町整備

1833(天保4)年の城下町を描いた地図

図は1833(天保4)年の城下町を描いた地図を1897(明治30)年に謄写したもので、「古町」には多くの寺院(朱色の部分)が描かれている。
【図は1833(天保4)年】

初代藩主の加藤清正、二代目の忠広は、城下町の整備とともに治水・利水のため大規模な河川改修も行った。

城下町も含む「熊本平野」は「阿蘇山」の西麓に位置し、「白川」などが運ぶ土砂・火山灰で形成された沖積平野。「白川」は多くの土砂も運ぶため洪水が起きやすく、近世までは洪水のたびに河川の流路が変わり、また合流・分流も多く入り乱れた流路であった。

清正は、1602(慶長7)年の「白川」の大洪水で城下町が被害を受けたことを契機に治水工事を進めたといわれ、1610(慶長15)年頃までに「白川」を直線化した。改修前の「白川」は現在の「代継橋」付近から大きく北側へ蛇行し「熊本城」の南側付近で「坪井川」と合流していた。さらに、忠広の時代には「坪井川」を「井芹川」につなぐ水路が開削され、「井芹川」下流は「坪井川」の新流路となった。その後、「白川」と新「坪井川」(旧「井芹川」)の合流地点であった、春日・二本木(現「熊本駅」東側)付近に「石塘(いしども)」と呼ばれる背割堤が作られ分流されるようになり、「坪井川」の新流路が「有明海」まで開削された。なお、「井芹川」は昭和戦前期に「花岡山」の北を通る新流路が開削されており、現在は西区上高橋付近で「坪井川」と合流している。

現在の春日付近の「石塘」

写真は現在の春日付近の「石塘」。右が「白川」、左が「坪井川」で、中央の道路は「石塘」上を通っている。
MAP __(撮影地点)

河川改修は「熊本城」の城づくり、城下町の街づくりにも寄与した。新しい流路となった「坪井川」は、「白川」と分流されたことで「阿蘇山」などからの土砂・火山灰の堆積も減り舟運が発達、城下町と「有明海」を結ぶ運河としての役割も担うように。城下町の西唐人町・中唐人町など「坪井川」沿いは河岸として、河口近くの高橋(現・西区高橋町付近)は城下町の外港として発展した。「熊本城」の南側には「坪井川」と「白川」が二重に流れるようになり、それぞれ「熊本城」の内堀・外堀として防御的な役割も持つように。「白川」の旧流路は埋め立てられ城下町が拡張され、武家屋敷などが置かれた。

「熊本城」の城下町は清正の入国以降、整備が進んだといわれる。城下町の南側に位置する「古町」は清正が最初に町割りをした町人地。「一町一寺制」の街並みが特徴で、約60m四方の大きな区画の道沿いに町屋、中央に寺院が置かれた。南西側の「新町」は「熊本城」の惣構(そうがまえ)内に作られた武家地であったが、のちに通り沿いは町屋(町人地)とされた。「熊本城」のすぐ南に位置する「山崎」は「白川」の河川改修後、城下町となり、1610(慶長15)年には清正の別邸「花畑屋敷」が置かれたほか、周辺は武家地となった。城の北側~東側にかけて「京町」「内坪井」「高田原」も武家地として整備され、城の防御の役割も担った。「京町」の「豊前街道」沿いには町屋(町人地)が置かれた。領主が細川家の時代に入り「外坪井」が武家地・町人地、「千反畑」が武家地、「白川」の対岸「迎町」が町人地となるなど、城下町の拡張が行われた。


熊本市中心部にも残る「眼鏡橋」 MAP __(明八橋)MAP __(明十橋)

九州、特に肥後・熊本では、江戸後期から明治中期にかけて、数多くの石造の「眼鏡橋(めがねばし)」が建設された。熊本で「眼鏡橋」が多く造られた理由として、高度な「眼鏡橋」造りの技術を持った「種山石工(たねやまいしく)」と、「阿蘇山」の噴火で形成され、石材に適した溶結凝灰岩の存在が挙げられる。

「種山石工」は江戸後期の石工・藤原林七を祖とする職人集団。林七は、長崎の「眼鏡橋」を見て構造に関心を持ち、研究の末「眼鏡橋」の技術を身に付けた。「種山石工」のうち、特に林七の孫である、丈八ら3兄弟は、江戸末期に多くの「眼鏡橋」を架橋し名を馳せ、1847(弘化4)年には、用水の水路橋である「通潤橋」(現・上益城郡山都町、1960(昭和35)年に国の重要文化財に指定)も完成させた。丈八は3兄弟の中でも特に技術的に優れ、設計・施工を担当した。その後、丈八は名字帯刀が許され(架橋の功績からともいわれる)、以降は橋本勘五郎を名乗った。勘五郎の名声は明治新政府にも知られるようになり、1871(明治4)年には、東京の「大蔵省 土木寮」に招かれ「万世橋」「浅草橋」(いずれも現存せず)などの「眼鏡橋」を手がけるとともに、その技術を関東の職人に伝え、東京の街の近代化にも足跡を残した。

※「眼鏡橋」とは、狭義で眼鏡のような形状をした石造の「二連アーチ橋」であるが、ここでは石造の「単アーチ橋」も含め「眼鏡橋」としている。

1874(明治7)年、勘五郎は熊本へ戻り、1875(明治8)年に「明八(めいはち)橋」、1877(明治10)年に「明十(めいじゅう)橋」を「坪井川」へ架橋している。両橋とも、「古町」(西唐人町)と「新町」を結ぶ「眼鏡橋」(「単アーチ橋」)で、命名は架橋年に因む。写真は昭和初期の「明八橋」。ここは、江戸初期より木橋の「新三丁目橋」が架けられ「薩摩街道」が通り、橋際には「新三丁目御門」も置かれた交通・防衛の要衝であった。【画像は昭和初期】

現在「明八橋」は歩行者用の橋となっている。「明十橋」も撮影方向の背後に残り、こちらは車道も通る。大正期頃から、コンクリート橋や鉄橋での架橋が一般的となり「眼鏡橋」は造られなくなったが、熊本県内では現在も江戸後期~明治期築造の多くの「眼鏡橋」が現役で使用され、地域住民の生活を支えている。

「西南戦争」で「熊本城」焼失

1877(明治10)年に勃発した「西南戦争」で、北に向かって進軍した薩摩軍は、政府軍の拠点となった「熊本城」の攻略を試みたものの『天下の名城』を落城させることはできなかった。加藤清正の築城以降、「熊本城」が戦いの舞台となったのは、「西南戦争」が最初で最後であり、その堅牢性は明治に入ってから初めて証明されたといえる。城を守ったのは「熊本鎮台」司令長官の谷干城(たにたてき)で、籠城のために事前に市中に火を放つ作戦をとった。時を同じくして「熊本城」にも火がつき、大天守、小天守、本丸御殿のほか、多くの建物が焼失したが、現在、国の重要文化財に指定されている「宇土櫓」などは残った。図は「西南戦争」を描いた『鹿児嶋争戦一覧図絵』。【画像は1877(明治10)年】

「天守閣」の復元と「熊本地震」での損壊

「熊本城」のうち、「西南戦争」で焼失を免れた「宇土櫓」「東竹の丸」などの築城当時の建造物は、「太平洋戦争」での戦災も免れた。戦後の1960(昭和35)年の「熊本国体」の開催と築城350年に合わせて、鉄筋コンクリート造りによる3重6階地下1階の天守閣が復元された。復元設計は城郭研究などの建築史家で「東京工業大学」の教授(当時)の藤岡通夫氏による。内部は「熊本市立熊本博物館」の分館となり、最上階は展望スペースとなった。また、本丸御殿は2008(平成20)年に復元され、「昭君之間」などが再現された。【画像は昭和30年代】

2016(平成28)年4月に発生した「熊本地震」によって、「熊本城」では「宇土櫓」や「東十八間櫓」などの重要文化財建造物、「天守閣」や「飯田丸五階櫓」などの復元建造物の大部分が被災。「石垣」も甚大な被害を受けた。写真は震災直後の様子。石垣や上層階の瓦の多くが崩れている。【画像は2016(平成28)年】

2019(令和元)年10月に3年半ぶりに公開(特別公開)が一部再開された。写真は復旧用の足場が組まれた「熊本城」。【画像は2019(令和元)年】

2021(令和3)年3月に天守閣全体の復旧が完了、同年4月から内部公開も含む特別公開が開始された。リニューアルされた館内の展示では、「熊本城」の歴史を中心に、1960(昭和35)年の天守再建、2016(平成28)年の「熊本地震」での被災と復旧についても詳しく紹介している。 MAP __(撮影地点)【画像は2022(令和4)年】


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