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熊本城と城下町


1607(慶長12)年、加藤清正が「熊本城」を築城

1607(慶長12)年、加藤清正により築城された「熊本城」は、中世に築かれた「千葉城」および「隈本城」があった「茶臼山」一帯に城郭を築き作られた平山城(丘陵などに築城された城のこと)。石垣は「清正流」という独特の積み方が用いられ、大天守と小天守のほか、現在も残る「宇土櫓(うとやぐら)」などを備えていた。画像は昭和戦前期に発行された、「西南戦争」以前の「熊本城」全景の絵葉書。【画像は「西南戦争」以前】

加藤清正・細川忠利によって行われた城下町整備

加藤清正は築城と併せて、城下町の整備も積極的に行った。当時は合流していた「白川」と「坪井川」を付替え、「石塘(いしども)」と呼ばれる背割堤で分流した。この「坪井川」に城の内堀としての機能を持たせ、物流を担う水路とした。また、城の西側に「新町」を形成するとともに、「坪井川」と「白川」の間に「古町」を設け、各地へ向かう街道の整備を行った。

江戸時代に入り、熊本藩の細川家初代藩主となった細川忠利は、町人地区の「古町」に「一町一寺」制を取り入れて、それぞれの町の中央に寺院を設置。その周囲を町屋で囲み、城の防護を固めた。図は1833(天保4)年の城下町を描いた地図を1897(明治30)年に謄写したもので、「古町」には多くの寺院(朱色の部分)が描かれている。【図は1833(天保4)年】

「坪井川」沿いにある全長242mの「長塀」は国の重要文化財に指定されている。「熊本地震」により一部が倒壊。石垣を残して解体されたが、現在復旧工事が進められている。 MAP __

「西南戦争」で「熊本城」焼失

1877(明治10)年に勃発した「西南戦争」で、北に向かって進軍した薩摩軍は、政府軍の拠点となった「熊本城」の攻略を試みたものの、天下の名城を落城させることはできなかった。城を守ったのは「熊本鎮台」司令長官の谷干城(たにたてき)で、籠城のために事前に市中に火を放つ作戦をとった。時を同じくして「熊本城」にも火がつき、大天守、小天守、本丸御殿のほか、多くの建物が焼失したが、現在、国の重要文化財に指定されている「宇土櫓」などは残った。図は「西南戦争」を描いた『鹿児嶋争戦一覧図絵』。【画像は1877(明治10)年】

「天守閣」の復元と「熊本地震」での損壊 MAP __

「熊本城」のうち、「西南戦争」で焼失を免れた「宇土櫓」「東竹の丸」などの築城当時の建造物は、「太平洋戦争」での戦災も免れた。戦後の1960(昭和35)年の「熊本国体」の開催と築城350年に合わせて、鉄筋コンクリート造りによる3重6階地下1階の天守閣が復元された。復元設計は城郭研究などの建築史家で「東京工業大学」の教授(当時)の藤岡通夫による。内部は「熊本市立熊本博物館」の分館となり、最上階は展望スペースとなった。また、本丸御殿は2008(平成20)年に復元され、「昭君之間」などが再現された。【画像は昭和30年代】

2016(平成28)年4月に発生した「熊本地震」によって、「熊本城」では「宇土櫓」や「東十八間櫓」などの重要文化財建造物、「天守閣」や「飯田丸五階櫓」などの復元建造物の大部分が被災。「石垣」も甚大な被害を受けた。写真は震災直後の様子。石垣や上層階の瓦の多くが崩れている。【画像は2016(平成28)年】

「熊本地震」以降、天守閣を中心とする本丸域は、立ち入りが制限されていたが、復旧工事が進んだため、2019(令和元)年10月5日には、3年半ぶりに公開(特別公開)が一部再開される。写真は復旧用の足場が組まれた「熊本城」。


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