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福岡・博多の前史


仲哀天皇と神功皇后の夫婦を祀る「香椎宮」 MAP __

「香椎宮(かしいぐう)」は、社伝では200(仲哀天皇9)年に神功皇后が祠を建て、夫である第14代仲哀天皇の神霊を祀ったことに始まるとされ、724(神亀元)年、神功皇后の神霊も祀られ、この両宮を併せて「香椎廟」と呼ばれるようになったといわれる。現在の本殿は江戸後期の1801(享和元)年、第10代福岡藩主・黒田斉清により再建され、「明治維新」後は官幣大社の「香椎宮」となった。写真は明治後期の「香椎宮」。左奥に見える楼門は1903(明治36)年に建立されたもので、手前右の線路は1904(明治37)年に開通した博多湾鉄道(現・JR香椎線)。【画像は明治後期】

仲哀天皇と神功皇后の夫婦を祀っていることから、現在は『夫婦の宮』とも呼ばれ、夫婦円満や家内安全などの祈願に訪れる参拝客も多い。

「香椎宮」の「御神幸」は、神輿行列が海岸方面へ向かう祭礼で、その際「頓宮」に立ち寄り神事が行われる。奈良時代の天平年間(729年~749年)に始まったといわれるが、中世に途絶えていた。1873(明治6)年に再興され、1907(明治40)年には常設の「頓宮」(「香椎宮浜殿」とも呼ばれた)も建立された。写真は明治後期の「香椎宮 頓宮」。右には昭和初期まで「香椎潟」と呼ばれた遠浅の海が拡がっており、「頓宮」は海岸沿いの高台にあった。
MAP __(頓宮)【画像は明治後期】

現在「香椎潟」は埋め立てられ、幹線道路や鉄道が通り、団地や住宅地、商業地などが広がっている。現在の「香椎宮」の「御神幸」は2年に一度行われている。「頓宮」は2020(令和2)年に新しい社殿へ建て替えられた。

『敵國降伏』の扁額が掲げられている「筥崎宮」の楼門 MAP __

応神天皇・神功皇后・玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祭神とする「筥崎宮(はこざきぐう)」。923(延長元)年、神勅により「大分(だいぶ)八幡宮」(現・福岡県飯塚市)から遷座され創建となったといわれる。「筥崎」の地名は、応神天皇が誕生した際、胞衣(えな・へその緒と胎盤のこと)を箱に入れて埋めたことに由来すると伝わる。

写真は昭和前期の「楼門」。「筥崎宮」は式内社、「筑前国一の宮」として古くから崇敬を集め、現在は「宇佐神宮(大分)」「石清水八幡宮(京都)」とともに『日本三大八幡宮』の一つにも数えられている。現在の「本殿」と「拝殿」は1546(天文15)年、「楼門」は1594(文禄3)年に建てられたもので、いずれも重要文化財に指定されている。【画像は昭和前期】

鎌倉時代、「元寇」の「文永の役」では「筥崎宮」も兵火に遭い焼失したが、亀山上皇が社殿再建に尽くし、国家鎮護を祈念し自らの筆による『敵国降伏』の書を奉納した。現在「楼門」の正面には『敵國降伏』の文字を写した扁額が掲げられているほか、境内には「東公園」にある「亀山上皇銅像」の木彫の原型も奉安されている。

大陸との交流の拠点となった「志賀島」

「志賀島(しかのしま)」は「博多湾」に位置し、陸繋砂州である「海の中道」で九州本土と結ばれている。「元寇」の「文永の役」(1274(文永11)年)と「弘安の役」(1281(弘安4)年)では、蒙古軍と日本軍との戦いの舞台にもなった。

写真は昭和前期、「志賀島」南東部の高台から「海の中道」を撮影したもの。「海の中道」の北(写真左)側は「玄界灘」の外海で荒波が押し寄せるが、南(写真右)側には内海の「博多湾」が拡がり、砂浜には漁船も見られるなど、穏やかな海岸であることがわかる。外海と遮断された部分が多い「博多湾」の地形は、『天然の良港』として古くから海上交通の拠点となってきた。【画像は昭和前期】

写真は「志賀島」の「潮見公園 展望台」から望む「海の中道」。
MAP __(潮見公園 展望台)

「志賀島」では江戸後期の1784(天明4)年に「金印(漢委奴国王印)」が発見された。正確な出土地は不明となっているが、1914(大正3)年に「九州帝国大学医科大学」(現「九州大学医学部」)の中山平次郎教授が現地踏査・文献調査により推定し、1923(大正12)年、推定地付近に「漢委奴國王金印発光之処」の碑が建立された。現在、碑の一帯は「金印公園」として整備されている。

「金印」は弥生時代後期の57(建武中元2)年、後漢王朝の初代皇帝・光武帝が倭奴国王(わのなのこくおう)に贈ったものであると考えられており、当時の外交を示す資料として1931(昭和6)年に国宝に指定、現在は「福岡市博物館」で公開されている。
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神功皇后の伝説も残る天然記念物「名島の帆柱石」 MAP __

「名島の帆柱石(なじまのほばしらいし)」は、「名島神社」境内の海岸に見られるカシ属の珪化木(けいかぼく・樹木の化石の一種)で、写真では右下に見える柵の内側にある。神功皇后の「三韓出兵」の神話と結びつき、出兵の際に使用した船の帆柱が化石になったという伝説から「帆柱石」と呼ばれている。【画像は明治後期】

ここは神功皇后の「三韓出兵」(4世紀頃)の際の船出の地といわれ、各地の軍勢を名乗らせながら乗船させたことから「名島」の地名となったと伝わる。神功皇后は、出兵前にここで「宗像三女神」へ無事を祈り、凱旋後に祀ったことが「名島神社」の起源という。戦国時代には「名島城」も置かれた。戦国時代後期の1587(天正15)年、豊臣秀吉が「九州平定」を果たすと「名島城」は小早川隆景の居城となり、「関ヶ原の戦い」後には黒田長政の居城となるが、すぐに新しい城が造られることになり、1692(慶長7)年に廃城となった。

「名島の帆柱石」は、1934(昭和9)年に国の天然記念物に指定された(登録名は「名島の檣(ほばしら)石」)。写真は「名島の帆柱石」のアップで、円柱状の石が写真外も含め9つ連続して並んでいる。

異なる時代の史跡が重なり合う「福岡城跡」と「鴻臚館跡」

1600(慶長5)年、「関ヶ原の戦い」の結果、黒田長政は筑前国の領主となり、小早川氏が居城としていた「名島城」へ入城した。しかし海に囲まれた「名島城」では城下町を発展させる余地がなかったこともあり、1601(慶長6)年、福崎の丘陵地において新たに築城を開始、1607(慶長12)年、九州最大級の平山城「福岡城」が完成した。長政は黒田氏の祖先のゆかりの地である備前福岡(現・岡山県瀬戸内市)に因み、地名を福崎から改称し福岡と呼ばれるようになった。長政は初代・福岡藩主として城下町も整備し、のちに九州最大の都市へ発展する礎を築いた。

写真は昭和前期の「下之橋御門」。「福岡城」は堀に囲まれ「上之橋」「下之橋」「追廻橋」の3つの橋から城内に入ることができ、それぞれに枡形がある城門が築かれていた。「下之橋御門」は本来の位置で現存する唯一の門で、城郭の北西側に位置する。写真は昭和前期の「下之橋御門」。江戸後期の1805(文化2)年築といわれ、元々は二層であったが、明治期~昭和前期までの間に一層へ改修されていた。
MAP __【画像は昭和前期】

「下之橋御門」は2000(平成12)年の不審火で焼失、2008(平成20)年、焼け残った部材も再利用され、江戸期の二層櫓門の姿へ復元された。写真の右に見える櫓は「(伝)潮見櫓」。「潮見櫓」は「三ノ丸」の北西角に建てられ、「玄界灘」や「博多湾」の監視、潮位・潮流の確認などに利用された。大正期に黒田家別邸に移築されたといわれ、1956(昭和31)年、現在地の場所へ再移築された。しかし、1991(平成3)年の調査で本来の「潮見櫓」は「崇福寺」へ移築されていたことが明らかになり、この櫓の本来の名称や由来は不明となった。現在は「(伝)潮見櫓」と呼ばれ、かつては「太鼓櫓」であった可能性が考えられている。

「福岡城」の敷地には、明治期になると一時県庁がおかれ、その後、陸軍の軍用地、公園などに使用された。戦後は「平和台野球場」といった運動施設、公共施設、学校の用地などに使用されたほか、一部は史跡としての整備も進められている。現在、「福岡城」には天守台が残されているが、天守は建設されなかったというのが通説であった。近年、天守の存在をうかがわせる書状が発見され、築城当初は実在していたが10数年のうちに取り壊されたという説が有力となった。写真は現在の天守台に整備された展望台から「大濠公園」方面を望む。2023(令和5)年には「福岡商工会議所」が「天守復元への検討」を開始するよう提言し話題となった。
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「筑紫館(つくしのむろつみ)」は、『日本書紀』にも登場する飛鳥・奈良時代の外交施設で、中国大陸や朝鮮半島からの使節団の迎賓館や「遣唐使」などが海外へ向かう際の拠点として使用された。平安時代になると「鴻臚館(こうろかん)」へ改称され、この頃から対外貿易の拠点としても利用された。名称は古代中国で外交を司った「鴻臚寺」に由来している。「鴻臚館」があったと考えられていた場所は、明治期まで博多の官内町(現・中呉服町)付近が定説であったが、大正期に中山平次郎博士が「福岡城内説」を提唱。1987(昭和62)年の「平和台野球場」改修工事に伴う発掘において関連すると考えられる遺構が発見され「福岡城内説」が裏付けられた。

その後、本格的な発掘調査が進み、1995(平成7)年に「鴻臚館跡展示館」が開館した。写真は現在の展示館内の様子で、発掘された遺構のほか、出土品、復元建物などが展示されている。

「平和台野球場」は老朽化などを理由に1997(平成9)年に閉鎖となり、1999(平成11)年より跡地の調査を開始。現在は球場跡の発掘調査は終了、埋め戻され暫定的に「鴻臚館広場」となっている。

「福岡城跡」は、1957(昭和32)年に国の史跡となっており、さらに2004(平成16)年、「福岡城跡」の指定エリア内に位置する「鴻臚館跡」も国の史跡に指定、全国で初めて指定エリアが重複する史跡となった(現在はもう一例あり)。
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『商人の町 博多』と『武士の町 福岡』

図は江戸中期の『筑前国那賀郡博多福岡両区地図』で、「那珂川」の中洲を境に、地図の右(東)側に博多、左(西)側に福岡の町が描かれている。図内の着色は、黄色が武家地、緑が町家、赤が寺社となる。

博多は古代から貿易の拠点であり、中世以降も商人の自治都市として発展した。地図では町家と寺社が大部分を占めていることがわかる。縦横に規則正しく区割りされているが、これはいわゆる「太閤町割」によるもの。戦国時代後期、博多の町は戦火により荒廃したが、1587(天正15)年、豊臣秀吉は「九州平定」を遂げるとすぐに博多の復興に取り組ませ、のちに「太閤町割」と呼ばれる都市計画のもと、整然とした区画の町として再興された。このとき、博多の町は7つの「流(ながれ)」と呼ばれる地域ごとの組織に分けられた。「流」は現代においては特に「博多祇園山笠」や「博多松囃子」の祭礼のための組織として引き継がれているほか、地域の結束や郷土愛の醸成にも寄与しているといわれる。

福岡は「福岡城」築城後、周囲に多くの武家地が置かれたため『武士の町』とも呼ばれる。地図からも、城の南側・西側や、天神町・大名町などに武家地が置かれていたことがわかる。【図は1754(宝暦4)年】



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※本ページでは、古代律令時代の役所、その遺跡に関するダザイフは「大宰府」、中世以降の地名や天満宮については「太宰府」と表記する。



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