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近世までの本郷・小石川


徳川綱吉が造営した本殿などが残る「根津神社」

「根津権現」(明治期以降「根津神社」へ改称)は1900年以上前、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、戦勝祈願のため、千駄木で創祀したことに始まったと伝わる、東京で最古級の神社。社名の由来は、江戸前期の書物に記されている「不寝(ねず)権現」など、諸説はあるが、不詳となっている。

戦国時代の文明年間(1469~1487年)に太田道灌が現在の千駄木一丁目に社殿を造営し再興。江戸前期の万治年間(1658~1661年)、この社地が太田氏の屋敷地とされたことから、東にあった植木屋の敷地内に遷座、さらに、この図の場所へ遷座となったという。

図は江戸末期、『江戸名所図会』に描かれた「根津権現旧地」(右上)。1706(宝永3)年に現在地へ移転する前の場所で、「元根津」とも呼ばれた。中央の坂名は「千駄木坂」(別名は「団子坂」「潮見坂」)。【図は江戸末期】

現在、「根津権現旧地」の場所には「文京区立本郷図書館」がある。根津の町名は、現在は千駄木の南に位置するが、「根津権現」自体は千駄木の地が発祥であり、「根津権現」が現在地へ移転した江戸前期以降、周辺が根津という地名になったと思われる。
MAP __(文京区立本郷図書館)

1662(寛文2)年、千駄木の南(現在の根津)にあった甲府徳川家の江戸藩邸で徳川家宣(のちの六代将軍)は生まれ、1704(宝永元)年、五代将軍・徳川綱吉は、家宣を養子とした。1706(宝永3)年、綱吉は、甲府徳川家の藩邸の跡地を「根津権現」(家宣の産土神であった)に献納し社殿を造営。同年「根津権現」は現在地となる、この地へ遷座された。図は江戸末期、『江戸名所図会』に描かれた「根津権現」。

江戸期には、境内一帯は「曙の里」とも呼ばれ、門前町は茶屋などが建ち並ぶ歓楽街としても発展した。岡場所(非公認の遊廓)も形成され、幕末期には「根津遊廓」となったが、明治期に入り、近くに「東京大学」(のち「帝国大学」)が開校したことから、1888(明治21)年に深川区(現・江東区)の「州崎遊廓」へ移転となった。【図は江戸末期】

写真は明治後期~大正期の「根津神社」入口付近。鳥居の先に楼門が見える。
MAP __【画像は明治後期~大正期】

写真は現在の「根津神社」入口付近。綱吉が造営した当時の建物(権現造りの本殿、幣殿、拝殿、唐門、西門、透塀、楼門)が全て欠けずに現存しており、国の重要文化財に指定されている。

「根津神社」は現在もツツジの名所として知られるが、その歴史は甲府徳川家の江戸藩邸時代、庭にツツジが植えられたことに始まるという。この地における歴史としては「根津神社」よりも長い。江戸期には「つつじヶ岡」と呼ばれる名所となった。写真は現在の「つつじ苑」。開花時期には多くの人が訪れる。
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「不忍池」が望めた「湯島天満宮」 MAP __

「湯島天満宮」(通称「湯島天神」)は、458(雄略天皇2)年、雄略天皇の勅命により創建されたと伝えられる古社。南北朝時代の1355(正平10)年、このあたりの住民が菅公(菅原道真)を勧請・合祀し、戦国時代の1478(文明10)年に太田道灌が再興した。徳川家康は、江戸入府の翌年となる1591(天正19)年に朱印地を寄進し、以降、幕府の崇敬を受けた。

図は江戸末期の1839(天保10)年頃、歌川広重によって描かれた『江都名所 湯しま天神社』。右が「男坂」。正面の「女坂」の先に「不忍池」の「辯天堂」が描かれており、見晴らしのよい場所であったことがわかる。「湯島天満宮」の場所は、地形的には「武蔵野台地」の一部、「本郷台地」の東端にあたり、「不忍池」がある「根津谷」越しに「上野台地」(「上野山」)が見える。【図は1839(天保10)年頃】

写真は現在の「男坂」(右)と「女坂」(正面)。昭和40年代頃より周囲にビルが建つようになり、見通しは悪くなったが、階段に地形を感じることができる。

菅原道真は、死後(平安時代前期)、その祟りを鎮めるため「天満大自在天神」(「天神」)として祀られるようになり、平安時代中期頃からは『学問の神』としても信仰されるようになった。「湯島天満宮」も、江戸期以降、多くの学者や文人からの崇敬を受けている。写真は明治後期~大正前期の撮影。明治期に入ると、正式名は「湯島神社」となった。【画像は明治後期~大正前期】

明治期以降の正式名だった「湯島神社」は、2000(平成12)年に元の「湯島天満宮」へ改められた。写真は現在の「湯島天満宮」で、社殿は1995(平成7)年に建て替えられている。現在は、学業成就や合格祈願のため参拝に訪れる人も多い。

関口周辺の歴史

文京区の南西側の関口一帯は、江戸前期の正保の頃までは村であった。江戸後期に「昌平坂学問所」の地理局が編纂した『新編武蔵風土記稿』では、関口の地名の由来は、このあたりに「奥州街道」(「古鎌倉街道」の一つ)の関があったという説と、「神田上水」の堰に因むという説が列記されている。「神田上水」(当初「小石川上水」と呼ばれた説もあり)は、徳川家康の命で作られた江戸の上水道で、1590(天正18)年(1603(慶長8)年の説もあり)に整備された。「井の頭池」など「武蔵野台地」の湧水が元となる現「神田川」の河川水を水源とし、関口に堰「大洗堰」を設け、ここから取水し、江戸市中へ水道管を敷いた。図は江戸期に描かれた『神田上水絵図』の関口付近。ここで取水された上水は、「後楽園」内を通り、「神田上水懸樋」で「神田川」を渡り、神田方面へ給水された。【図は江戸期】

松尾芭蕉は1677(延宝5)年からの3年間、「神田上水」の改修工事に携わり、「龍隠庵」と呼ばれた水番屋に暮らした。芭蕉の三十三回忌となる1726(享保11)年、「龍隠庵」の敷地に芭蕉やその弟子らの像などが祀られるようになり、1750(寛延3)年には芭蕉の短冊を埋めた「さみだれ塚」が建立された。のちに「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになり江戸の名所の一つとなった。図は江戸末期、歌川広重が『絵本江戸土産』の中で描いたもの、右の山が「椿山」、右中央の建物が「芭蕉庵」、下に「神田上水」が流れ「駒留橋」が架かる。 【図は江戸末期】

現在、「関口芭蕉庵」は「講談社」などが中心となって設立した「関口芭蕉庵保存会」が管理している。園内の建物は戦後に復元されたもの。「駒留橋」は上流寄り、「関口芭蕉庵」の下付近に架けられている。
MAP __(関口芭蕉庵)

写真は、明治後期~大正前期の「大洗堰」。「神田上水」はここで取水され、余水はここで「江戸川」(現「神田川」)に落とされていたため、「関口大滝」とも呼ばれた。「神田上水」は1901(明治34)年に廃止されたが、取水は、後楽園の「東京砲兵工廠」の工業用水として、1933(昭和8)年まで続けられた。
MAP __【画像は明治後期~大正前期】

1919(大正8)年、一帯が「江戸川公園」として整備され、「大洗堰」は史跡として保存されることになったが、1937(昭和12)年の河川改修工事で一転し撤去となった。この時、「江戸川公園」内に堰の部材の一部を利用し「由来碑」を建立したが、現在では失われている。近年、この「由来碑」の碑文部分のみ発見されており、公園内に再び設置された。現在、「大洗堰」のあった場所付近には「大滝橋」が架けられている。

江戸期より、「大洗堰」の落差を利用した水車(「関口水車」とも呼ばれる)が設けられていた。写真は明治後期の撮影で、水車のために取水された水は、「江戸川」上を木製の掛樋で運ばれた。当初、水車は製粉などに利用されていたが、幕末期になると、幕府の大砲製造の動力とされ、兵器工場の「関口製造所」が関口水道町に開設された。「明治維新」後は新政府に引き継がれたのち、後楽園の「東京砲兵工廠」へ統合された。
MAP __【画像は明治後期】

写真はかつて「関口水車」があった場所付近。現在、このあたりは桜の名所としても知られる。左上の道路は「首都高速道路5号池袋線」の「早稲田出口」。

「小石川御薬園」を前身とする「小石川植物園」

江戸前期の1684(貞享元)年、幕府が設けた「小石川御薬園」を前身とする「小石川植物園」。「東京大学」が設立された1877(明治10)年に「東京大学」の附属植物園となった。1897(明治30)年から1934(昭和9)年の間は、理学部の植物学教室も園内に置かれており、この間、植物学者・牧野富太郎氏も、ここで研究を行った。植物学教室の建物は、温室の南側(写真外右手)にあった。写真は明治後期~大正前期の「小石川植物園」の温室。この温室は明治期に建設されたもので、1945(昭和20)年、「太平洋戦争」の空襲で焼失した。
MAP __【画像は明治後期~大正前期】

現在の正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」。『日本の近代植物学発祥の地』といわれ、現在も自然誌を中心とした植物学の研究・教育が行われている。温室は、戦後再建されて改修を重ねてきたが、老朽化のため2014(平成26)年から建替えが進められ、2019(令和元)年に新温室となる「公開温室」(写真)が完成した。

写真は明治後期の「日本庭園」。「小石川御薬園」よりさらに前、1652(承応元)年に徳川綱吉(のちの五代将軍)が設けた別邸「白山御殿」の庭園に由来する。
MAP __【画像は明治後期】

写真は現在の「日本庭園」。

於大の方の墓所に建てられた「傳通院」 MAP __

「浄土宗」の「寿経寺」は、元は1415(応永22)年、小石川極楽水(現在の小石川四丁目15、現「宗慶寺」の場所)に開創された寺院であった。徳川家康の生母、於大の方(おだいのかた、以下於大)は、竹千代(のちの家康)を産んだのち、「坂部城」(現・愛知県阿久比町)の城主・久松俊勝と再婚していたが、俊勝の死後、出家し法名を「傳通院殿」と号した。1602(慶長7)年、於大は京都「伏見城」において75歳で逝去。翌年、家康は、於大を小石川の墓所に埋葬、その後、この墓所の地に堂宇を造営し1608(慶長13)年に竣工、「寿経寺」を移転させ、於大の菩提寺とした。

於大の法名から「傳通院 寿経寺」(一般には「傳通院」)と呼ばれるようになり、以降、幕府の庇護のもと発展。「増上寺」「寛永寺」とともに「江戸の三霊山」と称された。写真は昭和戦前期の中門。【画像は昭和戦前期】

小石川一帯は、1945(昭和20)年、「太平洋戦争」中の空襲で焼け野原となり、「傳通院」も、大部分を焼失した。戦後、本堂は1949(昭和24)年に再建、さらに1988(昭和63)年に建替えられている。戦後、門は再建されていなかったが、2012(平成24)年、かつての中門の場所に山門が再建された。

江戸後期の『武江図説』には、「傳通院」の門前に塔頭(たっちゅう・小寺院)が19軒、所化寮(しょけりょう・学僧の寮)が約100軒建ち並んでいたと記されている。明治後期の地図を見ると、塔頭は道路左側に3軒残っており、道路右側には「小石川郵便局」などができている。このあたりに路面電車(のちの都電)が開通したのは1908(明治41)年で、写真外右手付近に「表町停留場」(のち「伝通院前停留場」)が設けられていた。写真は大正中期~昭和戦前期の門前の様子。
MAP __【画像は大正中期~昭和戦前期】

写真は現在の「伝通院前交差点」で、交差点を左右に延びる道は「春日通り」、奥の「傳通院」から手前への道は「伝通院前通り」と呼ばれる。都電は1968(昭和43)年に手前(「伝通院前交差点」から「安藤坂」方面)の区間、1971(昭和46)年に現「春日通り」上の区間が廃止されている。


教育の地としての「傳通院」

「傳通院」は、江戸期以降、「浄土宗」の教育の場にもなっていた。「関東十八檀林」(「浄土宗」の僧の学問修行所)の一つとして、多いときは1,000人もの学僧が修行していたという。「明治維新」以降、「浄土宗」の教育は芝「増上寺」の「興学所」で行われるようになり、その後、改称・改組を経て、1887(明治20)年に「浄土宗宗学本校」が開校、1891(明治24)年に「傳通院」の境内裏手(北側)に移転した。1898(明治31)年「浄土宗高等学院」、1904(明治37)年「浄土宗大学」、1907(明治40)年「宗教大学」など、数度の改称・改組を経て、1908(明治41)年、巣鴨に移転となった。移転後の「宗教大学」は、1926(大正15)年、「天台宗」「真言宗豊山派」と共に設立した仏教連合大学、「大正大学」となり現在に至る。

「淑徳高等女学校」

明治後期~大正前期の「淑徳高等女学校」。MAP __
【画像は明治後期~大正前期】

1892(明治25)年、「浄土宗」の尼僧、輪島聞声(もんじょう)が女子教育の普及・向上のため、「傳通院」境内に「淑徳女学校」を設立、1903(明治36)年に「浄土宗立」となり、1906(明治39)年に「淑徳高等女学校」となった。写真は明治後期~大正前期の正門。校地は「傳通院」山門の西隣一帯にあった。1945(昭和20)年、「太平洋戦争」中の空襲で校舎は全焼した。

現在の「淑徳SC中等部・高等部」

現在の「淑徳SC中等部・高等部」。
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戦後、再建の際、移転の是非を巡って内部で対立が起こり、「淑徳高等女学校」は板橋区前野町へ移転(現「大乗淑徳学園」、現校名は「淑徳中学校・高等学校」など)、「小石川淑徳高等女学校」(現「淑徳学園」、現校名は「淑徳SC中等部・高等部」)が新たに小石川に設立され、それぞれ発展した。写真は「淑徳SC中等部・高等部」で、「傳通院」境内の東側にある。


「護国寺」と「護持院」

1681(天和元)年、生母・桂昌院の発願を受けた五代将軍・徳川綱吉は、幕府の「高田薬園」があった地に「護国寺」の建立を命じ、堂宇は翌年完成した。本尊は桂昌院の念持仏「琥珀如意輪観音」で絶対秘仏となっている。

一方、1687(貞享4)年、綱吉は殺生を禁ずる「生類憐れみの令」を初めて出すが、これは、崇敬する「筑波山知足院」(「筑波山神社」の江戸に置かれた別当寺で当時は湯島にあった)の住職の勧めがあったともいわれる。この翌年、綱吉は神田錦町に「知足院」を移し、1695(元禄8)年「筑波山護持院」へ改称。「護国寺」と「護持院」は、綱吉や桂昌院の崇敬を受け大寺院へと急発展、1707(宝永4)年、綱吉は「護国寺」の住職に「護持院」の住職を兼任させるようになった。1709(宝永6)年に綱吉が没すると、将軍による両寺院をはじめとする仏教寺院への過度な肩入れは終わり、「生類憐れみの令」も順次廃止されていった。

その後、1717(享保2)年の大火で「護持院」は類焼(跡地は「護持院ヶ原」と呼ばれる火除け地)。「護持院」は「護国寺」の境内に移され、本坊があった東側を「護持院」、観音堂などがあった西側が「護国寺」となり、移転後から1722(享保7)年まで、および1758(宝暦8)年以降は両寺院の住職は兼任され、幕府の祈願寺として篤い崇敬を受けた。図は江戸末期、『江戸名所図会』に描かれた「護国寺」(左半分)と「護持院」(右半分)。現在も「護持院」の惣門、「護国寺」の本堂・仁王門など、江戸期に建てられた堂宇が残る。
MAP __(護持院の惣門)【図は江戸末期】

1868(明治元)年、「護持院」は廃され、敷地は「護国寺」に引き継がれた。また、「護国寺」は幕府の後ろ盾を失ったことから、経済的に苦境に陥ったという。「護国寺」の約5万坪あった境内地のうち、「護持院」があった東側の大部分は新政府の土地となり、1873(明治6)年に皇族のための墓地「豊島岡墓地」(約2.4万坪)が造られた。また同年、「護国寺」の西側には「音羽陸軍埋葬地」(約5千坪)も置かれた。ここには「日清戦争」「日露戦争」などの戦死者等2,428柱が埋葬されていたが、「太平洋戦争」後、陸軍から「護国寺」の管理に戻ったのち整理され、1957(昭和32)年に「音羽陸軍埋葬地英霊之塔」が建立された。また、跡地の一部は文京区が買い取り、1960(昭和35)年に「文京区立青柳小学校」が新築・移転してきている。写真は明治後期~大正前期の「護国寺」。 MAP __(護国寺の仁王門)【画像は明治後期~大正前期】

「護国寺」は、大正期から昭和初期にかけて、高橋義雄(箒庵)が檀家総代を務め、境内の整備が行われた。高橋義雄は明治中期に「三井銀行」に入社、のち「三井呉服店」に移り、その後「三井財閥」の重役を務めるまでになり、明治末期に実業界を引退した。その後、茶人として活動し、「護国寺」の境内に複数の茶室を整備するなど、茶道の振興に尽力。また、1892(明治25)年、原六郎(明治期~大正期にかけて活躍した実業家)により、滋賀の「園城寺」から現在の「御殿山庭園」(現・品川区北品川)へ移築されていた「日光院客殿」を、1928(昭和3)年に「護国寺」の境内に再移築、「月光殿」とした。この「月光殿」は桃山時代の建立で、1931(昭和6)年、国の重要文化財に指定された。現在は境内に9つの茶室があり、「月光殿」とともに、大小多くの茶会が開催されている。


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※本ページでは、現在の文京区(旧・本郷区および旧・小石川区)を対象としている。
 特に明記していない場合、「戦前」「戦時中」「終戦」「戦後」「戦災」の戦争は「太平洋戦争」のことを示している。



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