最初の「日本橋」は1603(慶長8)年、徳川家康による江戸開府の翌月に完成。その後、大火での焼失などもあり、江戸期の間に17回(16回の説もあり)架替えられたといわれる。図は幕末期となる1855(安政2)年に刊行された、初代歌川広重による『五十三次名所図会 日本橋 東雲(しののめ)の景』。この橋は1858(安政5)年の大火で焼失している。江戸期の「日本橋」の特徴は、太鼓橋(上へ丸く反ったアーチ橋)で、親柱の装飾に擬宝珠(ぎぼし)があること。擬宝珠は橋の格式の高さを示すもので、江戸市中では、ほかに「京橋」と「新橋」だけに見られた。右奥には「江戸城」、遠くに「富士山」が描かれている。橋の手前は「魚河岸」、奥の蔵が並ぶ所が「西河岸」の蔵地。画題にある「東雲」とは夜明け頃、茜色に染まる東の空のことで、早朝の「魚河岸」の活気が描かれている。
徳川家康は、1590(天正18)年に江戸へ入国すると「江戸湊」の整備を始めた。当初は「日比谷入江」の沿岸一帯が港として利用され、「江戸城」の築城のための資材も陸揚げされた。築城とともに「日比谷入江」の埋立てなど、江戸の街の大改造も進められるようになり、「平川」などの河川の付け替えや、開削または埋め残しによる運河の造成が行われ、「江戸湊」の機能は現「日本橋川」沿岸をはじめ、新しい運河沿いに移されていった。1603(慶長8)年、現「日本橋川」に「日本橋」が架けられ、のちに「五街道」の起点ともされるなど、陸運・水運の交通・物流の要衝となり、「日本橋」一帯は江戸の交易を支える商業地帯としても発展を遂げた。