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移りゆく「日本橋」の姿

徳川家康が1603(慶長8)年に天下人となり、江戸城外濠から大川へ流れる川の上に一本の橋を渡した。その橋を中心として、様々な職業の人が集い、暖簾を掛けて腕を競い合った。また、その橋は諸国と江戸を結ぶ五街道の起点ともなり、たもとには新鮮な魚介が水揚げされ、賑やかな魚河岸が形成された。「将軍のお膝元」だった江戸時代から、国際社会に門戸を開いた明治以降まで、今昔写真で振り返る「日本橋」。変わりゆく時代の世相を映しつつ、絶えることない人の営みを伝えている。


「江戸」から「明治」へ、移りゆく日本橋の姿 MAP 1

初代歌川広重による「五十三次名所図会 日本橋」(1855(安政2)年刊行)。シンボリックな反り橋と欄干の擬宝珠、背景には江戸城の天守閣、遠くに霞むのは富士の高嶺。まさに「将軍のお膝元」に相応しい、清々しさに満ちた風景である。

日本橋が以前のような「反り橋」から「西洋式」の木桁橋に改架されたのは1873(明治6)年。平らな路面は、旧・東京市内でも増加し始めた馬車・人力車の需要に対応したものだ。近代化への重要な一歩を示した風景と言える。

初の「石造」日本橋、交通は市電、自動車へ MAP 2

明治も終わりに近い1911(明治44)年、江戸時代以来「木造」だった日本橋が初めて「石造」橋に姿を変えて完成した。旧・東京市内の交通手段は馬車鉄道から路面電車に変わり、新しい日本橋の上にもまもなく市電が走るようになる。

今も健在の「石造」日本橋。川の上には首都高が走り、市電は自動車車線に変わったが、橋の上は変わらず賑やかだ。毎日の通勤客だけでなく、海外からの観光客の姿も多い。


それぞれに思い浮かべる「日本橋」の姿

東都の繁栄を見守る麒麟の像

東都の繁栄を見守る麒麟の像

徳川幕府の開府とともに、江戸城下の中心として創架された「日本橋」。記録から確認できる限り、過去19度の改架がなされて20代目となり、現在に至る。「日本橋」と聞いて思い浮かべる姿は、浮世絵に描かれた木造の反り橋か、現存する石造アーチ型の「日本橋」か。それぞれに思い浮かべる「日本橋」の姿がある。

たとえば、浮世絵のモチーフとして幾度となく描かれてきた「日本橋」。多くの作品に共通しているのは、「擬宝珠」と呼ばれる親柱の装飾が見られることだ。葱坊主のような独特のかたちは、葛飾北斎や歌川広重の絵を見るとぱっと目に入る。格式の高い橋だけに取り付けることが許されたもので、江戸では「日本橋」と「京橋」の親柱だけが擬宝珠を冠していた。

また、浮世絵の「日本橋」に特徴的なのは、背景に描かれた「富士山」と「江戸城」、棒手振が運ぶ「初鰹」、「人力車御免」の幟旗といった風物が配置されることであり、それらから「『日本橋』であること」が言わずと知れた。

一方、1911(明治44)年に完成した石造アーチ型の「日本橋」を見ると、和洋折衷の装飾が施されたことが特徴となっている。構造技術は西洋に倣う一方で、装飾は和の要素を取り込もうとした。具体的には、橋の東西中央に鎮座する麒麟の像、橋台に配置した獅子の像、街道の一里塚に見られる松と榎の装飾などだ。

さて、明治時代に入り、伝統的な木造反り橋から、和洋折衷の石造アーチ橋へと変わった「日本橋」だが、そのあいだに建設された1873(明治6)年竣工の「日本橋」も忘れてはいけないだろう。木造ではあったものの、もはや反り橋ではなかった。その平坦な姿はより合理的な交通を可能にし、一刻も早く西洋諸国に追いつこうとする明治日本の強い思いを象徴していたのかもしれない。



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