「今城塚古墳」は、総長約350m、総幅約360mの前方後円墳。江戸時代に「太田茶臼山古墳」(現・茨木市)が「継体天皇陵」に比定、明治期になると公式に治定されたが、大正期以降の発掘調査・研究により、現在では「今城塚古墳」を継体天皇の真の陵(みささぎ)とする説が有力となっている。【画像は昭和初期】
大阪府の北東部・「淀川」右岸(北岸)に位置し、京都府との府境にも近い高槻・茨木エリアは、「淀川」流域で最大規模とされる前方後円墳「今城塚古墳」をはじめ多くの古墳も見られるなど、古代より栄えてきた地。府境近くの島本町山崎一帯は「桂川」「宇治川」「木津川」が合流し「淀川」となり、また「山崎通」も通るなど、古くから水陸の交通の要衝で、安土桃山時代には、『天下分け目の天王山』とも呼ばれる「山崎の戦い」の舞台ともなった。高槻・茨木は古くは城下町としても栄え、「山崎通」沿いには宿場町も形成された。明治期以降は道路・鉄道の整備とともに工場や学校も立地するように。戦後は大阪・京都のベッドタウンとなり、商業・教育施設も充実する街となった。