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古代王権から続く歴史の舞台


「淀川」流域で最大級の前方後円墳「今城塚古墳」 MAP __

JR「高槻駅」の西側に残る「今城塚古墳」は、総長約350m、総幅約360mの前方後円墳で、家・巫女・武人・鳥などの形象埴輪群が発掘された「埴輪祭祀場(はにわさいしば)」が大きな特徴。茨木市の「太田茶臼山古墳」が「継体天皇陵」とされているが、築造年代が天皇の没年に合わないことなどから「今城塚古墳」が継体天皇の真の墓と考えられている。【画像は昭和初期】

1958(昭和33)年に国の史跡に指定され、現在は「今城塚古墳公園」として整備されている。

後鳥羽天皇の離宮跡地に「水無瀬神宮」 MAP __

水無瀬は「桂川」「宇治川」「木津川」が合流し「淀川」となる地。水陸の交通の要衝で、奈良時代には「東大寺」の荘園「水無瀬荘」となった。平安時代になると景勝地・遊猟地として貴族の別荘も置かれ、鎌倉時代初期の1200(正治2)年には、後鳥羽上皇が「水無瀬川」の右岸に離宮「水無瀬殿」を置いた。1221(承久3)年、後鳥羽上皇は「承久の乱」を起こすも敗北、隠岐へ配流され18年後の1239(延応元)年に崩御を迎える際、思いを寄せていた水無瀬にて弔うよう希望。翌年、水無瀬(藤原)信成・親成親子が「水無瀬殿」跡地に「水無瀬御影堂」を建立、1494(明応3)年に後鳥羽上皇の神霊を迎えた。

「水無瀬御影堂」は明治期に入り、神仏分離により神式に改められ、1873(明治6)年に官幣中社「水無瀬宮」へ改称された。写真は昭和初期の「水無瀬宮」。【画像は昭和初期】

1939(昭和14)年、「後鳥羽天皇七百年式年」にあたり官幣大社へ昇格し「水無瀬神宮」へ改称された。境内の井戸から汲み上げられる「離宮の水」は、「名水百選」の一つとなっている。

「天王山」から「淀川」にかけての一帯で行われた「山崎の戦い」

1582年6月21日(天正10年6月2日)、明智光秀が主君・織田信長に対して謀反「本能寺の変」を起こし、信長は自害。「備中高松城」の毛利陣営を攻略中であった羽柴(豊臣)秀吉は、翌日に「本能寺の変」の報を受けると、すぐに毛利氏と講和し、主君・信長の仇を討つため全軍を京都へ強行軍で戻した(「中国大返し」と呼ばれる)。光秀軍は秀吉軍が京都に入る前、山城国山崎(現・京都府乙訓郡大山崎町)付近で迎え撃つこととし、「本能寺の変」から11日後の同年7月2日(旧暦6月13日)、「山崎の戦い」(「山崎合戦」などとも呼ばれる)が「天王山」から「淀川」にかけての一帯で行われた。この戦いは秀吉軍の勝利に終わり、光秀は敗走の途中、落ち武者狩りに遭い亡くなったといわれる。

光秀の天下はわずか11日で終わり、のちに『三日天下』という言葉が生まれ、また、この合戦をきっかけに秀吉は天下統一へ進んだことから、『天下分け目の天王山』という言葉も生まれた。

この合戦は、江戸期に秀吉の伝記『太閤記』や人形浄瑠璃、歌舞伎の演目などで広く知られるようになった。歌舞伎や浮世絵(武者絵)では、羽柴秀吉は「真柴久吉」、明智光秀は「武智道秀」「武智光秀」などと名前を変えて描かれている。図は一英斎芳艶が江戸末期に秀吉の出世物語を描いた武者絵『瓢軍談五十四場』より『三十三 久吉道秀天王山をあらそふ』。【図は江戸末期】

写真は「天王山」の八合目付近にある「旗立松」。眼下に「淀川」や「大阪平野」「京都盆地」を望む見晴らしの良い地で、「山崎の戦い」の時、秀吉が老松に「千成瓢箪」の旗印を掲げ、味方の士気を高めたといわれる。 MAP __【画像は大正期】

現在は7代目の「旗立松」が植えられている。鳥居は式内社「酒解(さかとけ)神社」のもの。江戸期までは「牛頭天王」を祀る「山崎天王社」(「天王山」名前の由来)であったが、明治に入ると神仏分離が行われ、1877(明治10)年に式内社の「酒解神社」であると比定された。


「高槻城主」となった『キリシタン大名』高山右近

「高山右近 高槻天主教会堂跡」の碑

「高山右近高槻天主教会堂跡」は、1949(昭和24)年に大阪府史跡に指定された。
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高槻周辺は、キリシタン大名として有名な高山右近の領地であったことから、熱心なキリスト教信仰の地として知られ、1581(天正9)年には、領民の70%を超える1万8000人がキリシタンとなっていた。

高山氏よりも前に城主だった和田惟政も、宣教師フロイスと親交があり、キリスト教を積極的に受け入れ、キリシタン文化の定着に寄与した。1570(元亀元)年頃に高山飛騨守・右近父子が「高槻城」に入城。父の飛騨守もキリシタンであり、その影響により、右近も10歳の頃に洗礼を受けたといわれる。

1582(天正10)年の「本能寺の変」により「安土城」が焼失すると、右近は、セミナリオ(神学校)を安土から高槻に移すなど、布教を続けた。

「高槻城主ユスト高山右近之像」

1965(昭和40)年、没後350年を記念し「カトリック高槻教会」に建立された「高槻城主ユスト高山右近之像」。
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1585(天正13)年、右近は明石へ転封。1587(天正15)年、豊臣秀吉により「バテレン追放令」が出され、棄教を迫られたが、右近はこれを拒否。明石の領土は剥奪され、加賀の前田家に身を寄せることとなる。

1612(慶長17)年、幕府は「禁教令」を発布。これにより右近にも「国外追放令」が出された。長崎からフィリピンに旅立ち、43日後にマニラへ到着。しかし、到着後ほどなく病に倒れ、1615(慶長20)年に63年の生涯を閉じた。一方、残されたキリシタンの一部は「隠れキリシタン」として信仰を守り続けた。1919(大正8)年、現在の茨木市千提寺地区でキリシタン遺物が発見、その存在が明らかになった。


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※本ページでは、大阪府高槻市、茨木市、三島郡島本町(一部、京都府乙訓郡大山崎町を含む)を中心に取り上げている。



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