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古代王権から続く歴史の舞台


「淀川」流域で最大級の前方後円墳「今城塚古墳」 MAP 1

JR「高槻駅」の西側に残る「今城塚古墳」は、総長約350m、総幅約360mの前方後円墳で、家、巫女、武人、鳥などの形象埴輪群を擁する「埴輪祭祀場(はにわさいしば)」が大きな特徴。茨木市の「太田茶臼山古墳」が「継体天皇陵」とされているが、築造年代が天皇の没年に合わないことなどから「今城塚古墳」が継体天皇の真の墓と考えられている。【画像は昭和初期】

1958(昭和33)年に国の史跡に指定され、現在は「今城塚古墳公園」として整備されている。

後鳥羽天皇の離宮跡地に「水無瀬神宮」 MAP 2

1240(仁治元)年に、後鳥羽天皇が離宮を置いた場所に、水無瀬信成・親成父子が菩提を弔うために「御影堂」を建立したことに始まる。1494(明応3)年、後土御門天皇から「水無瀬宮」の神号を受け、1873(明治6)年に土御門天皇、順徳天皇を合祀した。【画像は昭和戦前期】

現在の様子。境内の井戸から汲み上げられる「離宮の水」は、「名水百選」の一つ。

秀吉と光秀が争った天下分け目の「天王山の戦い」 MAP 3

「天王山」は「西山山地」の南端に位置し、「淀川」を挟んだ対岸には「男山」がある。1582(天正10)年、「本能寺の変」で織田信長を討った明智光秀と、備中「高松城」の城攻めから戻った羽柴(豊臣)秀吉による「天王山の戦い」が繰り広げられた。また、「幕末の天王山」ともいわれる「蛤御門の変」の舞台でもあった。【画像は大正期】

「天王山」から「男山」方面を望む。山に挟まれ「桂川」「宇治川」「木津川」が合流し「淀川」へと至る山崎は、交通の要衝だった。


高槻城主となったキリシタン大名、高山右近 MAP 4

高山右近 高槻天主教会堂跡

高山右近 高槻天主教会堂跡

高槻周辺は、キリシタン大名として有名な高山右近の領地であったことから、熱心なキリスト教信仰の地として知られ、1581(天正9)年には、領民の70%を超える1万8000人がキリシタンとなっていた。

高山氏よりも前に城主だった和田惟政も、宣教師フロイスと親交があり、キリスト教を積極的に受け入れ、キリシタン文化の定着に寄与した。1570(元亀元)年頃に高山飛騨守・右近父子が「高槻城」に入城。父の飛騨守もキリシタンであり、その影響により、右近も12歳で洗礼を受けたとされる。

1582(天正10)年の「本能寺の変」により「安土城」が焼失すると、右近は、セミナリオ(神学校)を安土から高槻に移すなど、布教を続けた。

高山右近像

高山右近像

1585(天正13)年、右近は明石へ転封。1587(天正15)年、豊臣秀吉により「バテレン追放令」が出され、棄教を迫られたが、右近はこれを拒否。明石の領土は剥奪され、加賀の前田家に身を寄せることとなる。

1612(慶長17)年、幕府は「禁教令」を発布。これにより右近にも「国外追放令」が出された。長崎からフィリピンに旅立ち、43日後にマニラへ到着。しかし、到着後ほどなく病に倒れ、1615(慶長20)年に63年の生涯を閉じた。一方、残されたキリシタンの一部は「隠れキリシタン」として信仰を守り続けた。1919(大正8)年、現在の茨木市千提寺地区でキリシタン遺物が発見、その存在が明らかになった。


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