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江戸期までの船橋


1,900年以上の歴史を持つといわれる「船橋大神宮」MAP 1

「船橋大神宮」の正式名は「意富比(おおひ)神社」で、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に建立、1,900年以上の歴史を持つといわれる。江戸期には徳川家の庇護を受けたが、1868(慶応4)年「戊辰戦争」の「市川・船橋戦争」で境内の多くの建物を焼失した。この時、夜間に沿岸を航行する船舶の目印となっていた境内の常夜灯も焼失したため、1880(明治13)年に地元有志の寄付金により「灯明台」(写真右上)が作られた。【画像は大正期~昭和初期】

本殿は1873(明治6)年に、拝殿は1889(明治22)年に再建された。

「灯明台」は1895(明治28)年に廃止されるまで政府公認の私設灯台として使用された。1965(昭和40)年に解体修理が行われ、2016(平成28)年に船橋市の「景観重要建造物」に指定されている。

「佐倉道」と「船橋宿」

「佐倉道」は、江戸と下総・上総・安房方面を結ぶ主要な道で、江戸中期頃から「成田山」参詣が盛んになると「成田街道」と呼ばれ、「船橋宿」は最大の宿場として賑わった。図は江戸後期に刊行された『成田参詣記』の挿絵。左手から右下に描かれた道が現在の「本町通り」で、左端に「意富比神社」の鳥居、橋が架かっているのが「海老川」、そして奥が「江戸湾」(現「東京湾」)となっている。「船橋宿」は「市川・船橋戦争」により大半が焼失した。【図は1858(安政5)年】

日本武尊の東征の際に地元民が「海老川」に小舟を並べて橋を渡したという伝説が「船橋」の地名の由来といわれる。写真は「本町通り」の「海老川橋」で、江戸期を中心に活躍した「五大力船」の船首がデザインされているほか、「船橋地名発祥の地」の碑も設置されている。 MAP 2

「小金牧」と「東京新田」

江戸期、「下総台地」には幕府の軍馬育成のため「小金牧」と「佐倉牧」が置かれた。「小金牧」は五つの牧の総称で、現在の船橋市域には「下野牧」があり、幕末には約200頭の馬が放牧されていた。図は歌川広重が描いた『冨士三十六景 下総小金原』。1869(明治2)年、明治政府は牧を廃止し開墾入植させる計画を立て、三井八郎右衛門高福を総頭取とする開墾会社を設立、初富・二和・三咲・豊四季というように入植順に因んだ地名がつけられていった。開墾地は「東京新田」とも呼ばれ、二和と三咲が現在の船橋市域内に位置している。【図は1858(安政5)年】

牧の周囲には野馬が外に出ないようにするための土手が築かれていた。写真は現在の船橋市二和東にある野馬土手の遺構。 2017(平成29)年に「下野牧二和野馬土手」として船橋市の指定文化財となった。 MAP 3

地名に名を残す「下総薬園」

江戸時代中期、八代将軍徳川吉宗の時代に、幕府御用医師並の丹羽正伯らが幕府の命を受け「下野牧」の一部に「下総薬園」を開くも、まもなく廃止された。これに前後して、付近に開かれた新田が「薬園台新田」と呼ばれ、現在の「薬園台町」「薬円台」の町名などの由来となっている。1875(明治8)年に陸軍が作図した地図で、「薬園臺新田」という地名が見られる。 MAP 4(薬円台公民館)【地図は1875(明治8)年】

牧の中にあった「御瀧不動尊」 MAP 5

「御瀧不動尊」は1423(応永30)年創建と伝わる寺院。お告げを受けて不動尊像を掘り出し、その掘った跡が滝となったといわれる。江戸期に「小金牧」の一部となったため、現在の船橋市金杉三丁目に移転していたが、明治期になって元の地に戻ったとされている。境内の一部は1950(昭和25)年に船橋市に無償提供され「御滝公園」となっており、現在は桜の名所としても知られている。写真は1957(昭和32)年頃の「御滝公園」。 MAP 6(江戸期の場所)【画像は1957(昭和32)年頃】

写真は現在の「御瀧不動尊」の滝。滝の水は、船橋市内を流れる「海老川」の源流の一つとなっている。


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※本ページは現在の習志野市・船橋市一帯を対象地域としている。
※本ページでは「国鉄総武本線」および「JR総武本線」を「総武線」と略記している。



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