「船橋大神宮」の正式名は「意富比(おおひ)神社」で、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に建立、1900年以上の歴史を持つといわれる。江戸期には徳川家の庇護を受けたが、1868(慶応4)年、「戊辰戦争」の「市川・船橋戦争」で境内の多くの建物を焼失した。この時、夜間に沿岸を航行する船舶の目印となっていた境内の常夜灯も焼失したため、1880(明治13)年に地元有志の寄付金により「灯明台」(写真右上)が作られた。
現在の「船橋駅」周辺は、江戸期には「船橋宿」として栄えた。また、船橋の北側の台地上は「小金牧」の一部で、幕府の軍馬育成のための放牧場が広がっていた。明治初期に「小金牧」の跡地は開墾が進められたほか、陸軍の演習場となり「習志野原」と命名され、軍施設が立地するようになった。沿岸部では明治初期に塩田が開発され、明治中期から大正にかけて鉄道網が発達すると商業都市として、また海浜リゾートとしての発展を見せた。戦後は、「谷津遊園」「船橋ヘルスセンター」などが賑わう東京近郊の行楽地となったほか、広大な軍施設の跡地や湾岸の埋め立て地を中心に、工業・住宅・学園都市として発展。「船橋駅」「津田沼駅」周辺が商業地として発展したほか、近年は湾岸や郊外に大型商業施設も立地している。