中河内地域は「生駒山地」と「上町台地」の間に位置し、「縄文海進」の時代には「河内湾」となっていた。ここに旧「大和川」などが運んできた土砂が堆積、徐々に「河内平野」が形成され、また「大阪湾」とつながっていた湾口部分が狭くなり、弥生時代後期から古墳時代前期には広大な湖「河内湖」となった。その後、徐々に小さくなり、江戸時代に「大和川」が付替えられるまでは、「新開(しんかい)池」(現・東大阪市北部)、「深野(ふこの)池」(現・大東市周辺)の二つの大きな池に分かれて残っていた。
写真は1931(昭和6)年頃の撮影で「大阪府立八尾高等女学校」から東側、「河内平野」とその先の「生駒山地」を望んでいる。【画像は1931(昭和6)年頃】
「大阪府立八尾高等女学校」は戦後に「大阪府立山本高等学校」となっている。写真は同校付近から望む「生駒山地」。MAP __