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中河内地域の地形と「大和川」の付替え


「河内平野」と「生駒山地」

中河内地域は「生駒山地」と「上町台地」の間に位置し、「縄文海進」の時代には「河内湾」となっていた。ここに旧「大和川」などが運んできた土砂が堆積、徐々に「河内平野」が形成され、また「大阪湾」とつながっていた湾口部分が狭くなり、弥生時代後期から古墳時代前期には広大な湖「河内湖」となった。その後、徐々に小さくなり、江戸時代に「大和川」が付替えられるまでは、「新開(しんかい)池」(現・東大阪市北部)、「深野(ふこの)池」(現・大東市周辺)の二つの大きな池に分かれて残っていた。

写真は1931(昭和6)年頃の撮影で「大阪府立八尾高等女学校」から東側、「河内平野」とその先の「生駒山地」を望んでいる。
MAP __【画像は1931(昭和6)年頃】

「大阪府立八尾高等女学校」は戦後に「大阪府立山本高等学校」となっている。写真は同校付近から望む「生駒山地」。

『古事記』『日本書紀』に記載されている「神武東征」には「河内湾」の津(港)であった「盾津(たてつ)」(現・東大阪市日下(くさか)町付近)という地名が登場する。写真は1940(昭和15)年に建立された「神武天皇聖蹟盾津顕彰碑」。「生駒山地」(写真奥)の西麓に位置している。
MAP __【画像は1942(昭和17)年頃】

写真は現在の「神武天皇聖蹟盾津顕彰碑」。ここから400mほど南に位置する縄文後期から晩期にかけての貝塚「日下貝塚」では海水貝と淡水貝が発掘されており、かつては海(「河内湾」)が近くまで迫っていたこと、その後「河内湖」となり淡水化していったことを裏付けている。
MAP __(日下貝塚)

奈良時代からの古道「暗越奈良街道」 MAP __

「暗越(くらがりごえ)奈良街道」は大坂(大阪)と奈良間を最短距離で結ぶ街道。「生駒山地」を標高455mの「暗(くらがり)峠」で越える。奈良時代から往来に使われ、江戸時代には大和郡山藩が「大坂城」への参勤に利用し、峠がぬかるまないよう石畳を敷いた。江戸後期には庶民の伊勢参宮道としても利用された。図は江戸後期、『河内名所図会』に描かれたもので、題名は「椋嶺(くらがね)峠」となっている。【図は江戸後期】

現在の「暗峠」。大阪府東大阪市と奈良県生駒市の境となっている。このあたりは石畳を残して道路が改修されている。

写真は1956(昭和31)年頃の様子。写真右の建物が地蔵堂で、その手前に道標が立てられている。【画像は1956(昭和31)年頃】

道標は現在も残り、地蔵堂は建て替えられている。現在は「国道308号」に指定されており、峠の大阪側にある急坂の最大傾斜は17.2度で、車が通れる国道では日本一の急勾配といわれている。
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「大和川」の付替え MAP __

「大和川」は江戸時代の初めまでは現在の「長瀬川」を本流に、網の目のように枝分かれして「河内平野」を流れていた。川が運ぶ肥沃な土砂があり、古代から田畑が開かれ、人々が生活を営んできた一方で、洪水の被害も多かった。

流域の人々は「大和川」の川筋の付替えを願い出て、50余年にわたる請願運動を続けた結果、ついに幕府を動かした。江戸中期の1704(宝永元)年、柏原から堺の間約14.5kmに新しい流路を開削する付替え工事が、延べ240万人の人手により、わずか8ヶ月という驚異的な早さで完了した。

図は付替え工事前の河内国の地図に新流路と主な地名等を追記したもの。【図は江戸前期】

写真は昭和初期頃、堅下村安堂(現・柏原市安堂町)付近から望む「大和川」。このあたりで富田林方面から流れる「石川」が合流する。かつては、この写真の右上付近から直進していたが、付替えで左に流路を変えている。【画像は1931(昭和6)年頃】

写真は「柏原市役所」前付近から望む現在の「大和川」。中央に歩行者・自転車専用の「新大和橋」、その奥に近鉄道明寺線の「大和川橋梁」が架かる。この橋は、1898(明治31)年に道明寺線の前身である河陽鉄道が開業した際に建設されており、現在の近鉄の路線の中で最古の構造物といわれている。橋の先に見える高層ビルは、撮影地点から約13km北西に位置する「あべのハルカス」。
MAP __(撮影地点)

「大和川」旧流路の新田開発

「大和川」の付替えの翌年、1705(宝永2)年から、「久宝寺川」や「玉櫛川」などの旧川筋や「新開池」、「深野池」などで新田開発が始まり、付替えから5年後には約1,050haの新田が町人や寺院、有力な農民などによって開発され、幕末には53ヶ所までに達した。新田所有者の中には、国内有数の豪商であった、鴻池家、三井家など都市を本拠とする町人も含まれており、現地には会所が設けられ、支配人を置き管理した。

写真は1956(昭和31)年頃の「鴻池新田」の様子。右奥に見える屋敷林が「鴻池新田会所」と思われる。当時はまだ一帯に農地が拡がっていたが、現在ではほとんどが住宅地となっている。【画像は1956(昭和31)年頃】

写真は現在の「鴻池新田」で、このあたりが過去の写真の撮影地点と思われる。写真右には戦後よりニット製品の工場が置かれていたが、1977(昭和52)年に「サティ 鴻池店」が開店、現在は「イオン 鴻池店」になっている。
MAP __(撮影地点)

大坂の豪商、鴻池家が「新開池」の跡地を開発した「鴻池新田」には、現在も「鴻池新田会所」の建物が残り、敷地は国の史跡、建物は重要文化財に指定されている。上は「弁天池」と「本屋」の座敷の写真。

長屋門を中心とした鳥瞰写真。「鴻池新田」は、「大和川」の付替え工事によってできた新田の中で最大の面積を誇っていた。
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「菱屋東・中・西新田」は菱屋庄右衛門が開発、のちに江戸の三井家が経営する「三井大坂両替店」(旧「三井銀行 大阪支店」の前身)の所有となった。会所は「三井会所」と呼ばれ、跡地には「旧菱屋中顕彰碑」が建立されている。
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※「おおさか」を漢字で書くとき「大阪」と「大坂」の表記がある。江戸時代は、「大坂」と書かれることが多かったが、大坂の「坂」の字が「土に反る」と読めるので縁起が悪いという理由で(諸説あり)、明治時代以降「大阪」に統一された。本文中では、江戸時代以前は「大坂」、明治時代以降は「大阪」に便宜上統一した。
本ページでは、中河内地域として、現在の八尾市、柏原市、東大阪市を中心に取り上げている。



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