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「津久井道」と「多摩川」「多摩丘陵」


「枡形山」の歴史

標高84mの「枡形山」は、「生田緑地」内で一番高所に位置する。鎌倉時代、源頼朝の侍大将であった稲毛三郎重成が城を構えた地で、室町時代には北条早雲の軍勢が入城、戦国時代には後北条氏の守りを固めるための土塁が築かれるなど、天然の要害をなす山城として利用されたといわれる。写真は1952(昭和27)年頃の様子。【画像は1952(昭和27)年頃】

「向ヶ丘遊園駅」付近からの「枡形山」。桜の名所としても知られる。

1995(平成7)年に完成した「枡形山広場展望台」からは東京都心部など360度の眺望が楽しめる。 MAP 1

樹齢数百年を超える「弘法松」 MAP 2

弘法大師の挿した杖が根付いたものという伝説がある「弘法松(こうぼうのまつ)」。高さ32m、樹齢数百年を超える黒松で、県の天然記念物であったが、1956(昭和31)年にハチの巣を焼いた際に燃え移り、その後、倒木の恐れが出てきたため伐採された。写真は1919(大正8)年の撮影。地形的には「多摩川水系」と「鶴見川水系」の分水嶺上、かつては橘樹(たちばな)郡と都筑郡の境界にあたり、戦前から昭和30年代頃までは「枡形山」とともにハイキングコースの一部としても知られていた。【画像は1919(大正8)年】

現在は「弘法松公園」となっており、「弘法松跡」の碑が建てられているほか、新たな松も植えられている。公園周辺は百合ヶ丘の住宅地として発展している。

「津久井道」の「登戸宿」と「小泉橋」

「津久井道」は江戸時代から江戸と相模(現在の世田谷区方面と相模原市の津久井方面)を結ぶ道。図の左方面が「多摩川」の「登戸の渡し」となる。「登戸宿」は交通の要衝で、周辺の名産「禅寺丸柿」「黒川炭」や津久井などの絹、「多摩川」上流から流される木材、海路からの石材などの集散地としても賑わった。「登戸宿」と「榎戸」の間に描かれている水路は1611(慶長16)年に新田開発のために作られた「二ヶ領用水」。【図は江戸後期】

「津久井道」が「二ヶ領用水」を渡る橋は、「江戸名所図会」の描かれた当時は木橋で「榎戸橋」と呼ばれていたが、1844(天保15)年に豪農の小泉利左衛門が石橋に架け替えて以降「小泉橋」と呼ばれるようになった。当時の橋は、明治期以降も拡築・補強の上、1991(平成3)年まで使用された。現在は架け替えられたが、橋名にその歴史を残す。 MAP 3

「登戸の渡し」からの歴史を引き継ぐ橋と貸しボート店

「津久井道」が「多摩川」を渡るための「登戸の渡し」は、古くより往還に重要な役目を果たしていた。1927(昭和2)年に小田急線が開通し電車で「多摩川」を渡れるようになったが、渡しはその後も地元住民に利用された。写真は1930(昭和5)年頃の「登戸の渡し」の様子。【画像は1930(昭和5)年頃】

「登戸の渡し」の廃止後、渡しの業者はレジャー・釣り用の貸しボート店へ転身、最盛期には6店が営業していた。写真は1980年代頃の登戸側の様子で、多くのボートで賑わう。橋は小田急線。【画像は1980年代頃】

現在は貸しボート店「たまりや」が「多摩川」の狛江市側で営業を続けている。オーナーは「登戸の渡し」を営む家に生まれ、以来この地の変化を見守っている。 MAP 4

戦後、東京都の水不足対策として、川崎市の「長沢浄水場」から「相模川」の水を東京都へ送る水道管が敷設されることになり、これに合わせ「多摩水道橋」が架橋され、1953(昭和28)年に開通した。同年、「多摩川」の渡し船としては最後まで残っていた「登戸の渡し」は廃止となった。 【画像は1954(昭和29)年頃】

「多摩水道橋」は、1989(平成元)年から2001(平成13)年まで実施された整備事業で、現在の片側2車線の橋に架け替えられた。 MAP 5


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※本ページでは小田急小田原線を小田急線と略記としている。現在の川崎市多摩区及び麻生区の小田急線沿線一帯を対象地域としている。



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