開国後、当時の輸出品の多くを占めていた生糸を、産地・集積地である八王子から「横浜港」へと運ぶルートであった「町田街道」は、昭和30年代頃から、その歴史が評価され『絹の道』とも呼ばれるようになった。開国当時、横浜に居留していた外国人たちは、馬を使い町田・八王子方面などへ遠乗りに出かけた。写真は、その中の一人、イタリア人の写真家であるフェリーチェ・ベアトが撮影した幕末頃の原町田の風景。通りの奥に見える森は「浄運寺」の境内で、左に見える大きな木の向かい側が現在の「ぽっぽ町田」付近といわれる。「二・六の市」はこのあたりで開かれており、当時の「町田街道」の道幅は現在より広くなっていた。通りの右寄りに「高札場」、左寄りに馬を繋ぐための杭が見られる。現存する町田市内の写真としては最古の記録とされる。
東京都西南部における主要都市である「町田」。古くは「鎌倉街道」沿いの「本町田」地区が宿場として賑わい、開国後には、生糸の輸送ルートとして「町田街道」(『絹の道』)が利用されたことから、街道沿いの「原町田」地区が物資の中継点として繁栄した。貿易港である「横浜」との結びつきも強く、一時は神奈川県に属していた。この「原町田」地区には、横浜鉄道(現・JR横浜線)、小田急線の駅が開業、現在に至るまで町田の中心地となっている。その後も国鉄(現・JR)駅の小田急寄りへの移転、駅前の再開発が行われ、さらなる街の整備が続いた。