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町田繁栄のきっかけ『絹の道』


生糸の産地と港を結ぶ、『絹の道』を通じ横浜の居留外国人との交流も MAP __

開国後、当時の輸出品の多くを占めていた生糸を、産地・集積地である八王子から「横浜港」へと運ぶルートであった「町田街道」は、昭和30年代頃から、その歴史が評価され『絹の道』とも呼ばれるようになった。開国当時、横浜に居留していた外国人たちは、馬を使い町田・八王子方面などへ遠乗りに出かけた。写真は、その中の一人、イタリア人の写真家であるフェリーチェ・ベアトが撮影した幕末頃の原町田の風景。通りの奥に見える森は「浄運寺」の境内で、左に見える大きな木の向かい側が現在の「ぽっぽ町田」付近といわれる。「二・六の市」はこのあたりで開かれており、当時の「町田街道」の道幅は現在より広くなっていた。通りの右寄りに「高札場」、左寄りに馬を繋ぐための杭が見られる。現存する町田市内の写真としては最古の記録とされる。【画像は幕末頃】

写真は現在の「原町田中央通り」で、北西方向を撮影している。「ぽっぽ町田」は右のマンションの裏にある。

「町田街道」沿いの「二・六の市」が「原町田商店街」の起源 MAP __

原町田一帯では、農業以外の副収入として1587(天正15)年から「町田街道」にて「二の市」を開催。これが発展して天保の頃には「二・六の市」となり、現在の「原町田商店街」の原型となった。当初は町田産の炭・薪・蚕糸・綿糸・畑作物などを扱っていたが、「町田街道」が『絹の道』として発展し、さらに鉄道が開通したことで一大商業地としての土台が築かれていった。写真は大正期の撮影。開港以来、原町田には横浜より西洋の文化が入ってきたこともあり、早くから洋品店、舶来品を扱う時計店なども見られた。右の商店は洋品店の「小林洋文堂」と思われる。【画像は大正期】

「小林洋文堂」は江戸末期に原町田に創業した「弁天屋長林堂」が前身。1877(明治10)年に洋品店「小林洋文堂」を開店し、ショール、帽子、こうもり傘などを扱った。現在「小林洋文堂」は300mほど北東となる現「町田街道」沿いへ移転、文具等の販売会社として営業を続けている。かつて「小林洋文堂」などがあった場所では「原町田四丁目地区第一種市街地再開発事業」が行われ、1999(平成11)年に「サウスフロントタワー町田」(写真右の建物)が完成している。


『絹の道』が運んだ近代思想と自由民権運動

この地図は、1879(明治12)年頃の神奈川県全域を示した『神奈川県管内地図』。現在の町田市域を含めた多摩地区は、当時神奈川県に属していた。その後、1893(明治26)年に多摩地区(西多摩郡、北多摩郡、南多摩郡)は東京府へと移管され、地図上に示した赤い線が東京府と神奈川県との境となった。『絹の道』は物流のほか、外国の思想や文化も伝える道ともなっており、武相地域では自由民権運動も拡大、多摩地区の東京府移管の理由の一つとなった。【図は1879(明治12)年頃】

『絹の道』と多摩の東京府移管

『絹の道』の石碑

「小田急町田駅ビル東口広場」前に建てられている『絹の道』の石碑。 MAP __

江戸末期以降、町田が発展した大きな理由として『絹の道』の存在が挙げられる。八王子は江戸時代から繭や生糸の産地であり、さらに甲州や上州など大生産地からの集積地としても発展、『桑都』とも呼ばれた。一方、「横浜港」は開国以降、貿易港として発展、明治以降には国策でもあった生糸輸出のための積み出し港となる。この八王子と「横浜港」をつないだのが『絹の道』で、そのほぼ中間に位置する原町田は中継地として発展した。

『絹の道』は横浜を通じて、キリスト教や自由民権思想など、外国の思想・文化も運んだ。特に自由民権思想は『絹の道』沿道の豪農など、村の有力者を中心に広まり、現・町田市域からは、石坂昌孝、青木正太郎といった有力な指導者を輩出、また大規模な集会が開かれるなど、「自由民権運動」の中心地となった。

その後、現・町田市域を含む多摩地区(西多摩郡、北多摩郡、南多摩郡)が属していた神奈川県の県議会では、多摩地区出身をはじめとする「自由党」議員が勢力を拡大、県知事と対立するなど県政の混乱が見られるようになる。県知事は「自由党」の勢力分断のため、多摩地区の東京府への移管を政府に要請、東京府としても水源地である多摩地区を管理下に置きたいという思惑もあり、境域変更法案は「帝国議会」でわずかな審議ののち可決、多摩地区は1893(明治26)年4月、神奈川県から東京府に移管された。

『絹の道』がなかったら、また「自由民権運動」が拡大することがなければ、現在も「神奈川県町田市」であったかもしれない。



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