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三国の境界に位置していた堺


摂津・河内・和泉の境界に位置 方位のない地「方違神社」 MAP __

紀元前90(崇神天皇8)年、崇神天皇が疫病をおさめるため「須佐之男神(すさのおのかみ)」を祀ったのが「方違(ほうちがい)神社」の創祀といわれている。その後、神功皇后が反乱にあった際に、この地で方災除けを祈願し勝利した。また、応神天皇が、「須佐之男神」「三筒大神(みつつおのおおかみ)」と神功皇后を合わせ祀り、「方違大依羅神社(かたたがへおおよさみのかむつやしろ)」と名付けた。この地は三国の国境で方位がない地と考えられ、参拝することによって悪い方位を祓うとされている。【画像は大正期】

現在は、海外旅行や転勤、引っ越しなどの際に方災除けのため、参拝する人が多い。2010(平成22)年に創建2100年を迎え、2017(平成29)年に社殿の造替など大規模な境内整備が行われた。

日本最大の古墳「仁徳天皇陵古墳」 MAP __

4世紀に在位していた第16代の天皇、仁徳天皇の墓ともいわれる「仁徳天皇陵古墳(百舌鳥耳原中陵・もずのみみはらのなかのみささぎ)」は、堺市内にある「百舌鳥古墳群」の一つで、「大仙陵」「大山古墳」ともよばれる前方後円墳。墳丘の大きさは全長486mで日本最大、墳丘の周りには水を湛えた濠が三重にめぐらされている。エジプトの「クフ王のピラミッド」、中国の秦の「始皇帝陵」とともに『世界三大墳墓』の一つに数えられる。【画像は昭和前期】

「二重濠」の外側堰堤にある拝所から参拝することができる。

第29代の欽明天皇が「八幡大神」の宣託を受け「百舌鳥八幡宮」を創建 MAP __

第15代の応神天皇の母である神功皇后が、幾万代までの天下泰平を祈願された後、第29代の欽明天皇が「八幡大神(はちまんおおかみ)」の宣託を受け、この地を「万代(もず)」と称し、社を建てたのが「百舌鳥(もず)八幡宮」の起源といわれている。平安時代に「石清水(いわしみず)八幡宮」の別宮となり、江戸時代には、徳川幕府の「大坂城代」が交替する際に参拝するのが通例だった。【画像は昭和前期】

神社の境内は約1万坪と広大。社殿は江戸時代の創建で、1971(昭和46)年に修復されている。

堺と飛鳥を結んだ「竹内街道」

『日本書記』によると、613(推古天皇21)年の条に『難波より京に至る大道(おおじ)を置く』と記されている。『難波より京』とは、「難波津(なにわづ・難波の港)」から当時の宮殿があった飛鳥までを意味する。日本最古の官道「大道」の一部でもある「竹内(たけのうち)街道」の沿道には「百舌鳥古墳群」「金岡(かなおか)神社」など古墳や古社・古刹も多く、古代より政治・経済・外交の道となっていたことが伺える。

写真は昭和初期、堺の上空からの撮影で、左下から上方向(東方向)へS字に延びる道が「竹内街道」及び「西高野街道」。左上あたりで「竹内街道」は左へ分岐する。右で大きくカーブを描いている鉄道は南海高野線、右上が「仁徳天皇陵古墳」となる。【画像は昭和前期】

「竹内街道」と「西高野街道」は堺・大小路を起点とし、しばらく同じ道を辿りここで分岐する。左が「竹内街道」で、現在の大阪府松原市・羽曳野市を通り奈良県葛城市へ向かう。右は「西高野街道」で「高野山」方面へ向かう。
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奈良時代の高僧・行基誕生の「家原寺」 MAP __

「家原寺(えばらじ)」は668(天智天皇7)年に行基が誕生した地として知られる。704(慶雲元)年に生家を寺院へと改めた。1316(正和5)年、行覚が絹本着色『行基菩薩行状絵伝』を描かせて「行基信仰」を推進した。【画像は大正期】

知恵を司る「文殊菩薩」を祀っていることから『知恵の文殊さん』と呼ばれている。受験の季節になると、本堂の壁や柱が合格を祈願するハンカチで埋めつくされる。


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