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「下総国府」の造営と自然景観


市川の自然景観と「三本松」 MAP __

現在の市川市北部の台地付近は、縄文時代に遠浅の入江となっていて絶好の漁場であったため、台地上には1893(明治26)年に発見された「姥山貝塚」をはじめ、「曽谷貝塚」「堀之内貝塚」の『三大貝塚』を含む貝塚が55ヶ所発見されるなど全国有数の貝塚密集地域となっている。また、「千葉街道」沿い南北約0.5~1km、東西約4kmの範囲に「市川砂州」と呼ばれる地形が広がる。砂州上にはかつて防砂林などに利用された黒松が群生しており、独特の景観をつくりあげてきた。現在も「市川砂州」上の市街地では黒松を見ることができる。

写真は「千葉街道」沿いに生えていた「三本松」。明治初期、明治天皇が「習志野原」へ行幸した際に「凱旋門」のような樹形を称賛したといわれる。大正期頃より「三本松」付近には商店や銀行が立地するなど、商業地としての発展を見せ、1924(大正13)年には映画館「三松館」も開館した。【画像は大正期】

しかし、トラックが通るようになると、横に延びていた一本は荷物で傷つき枯れてしまったため、1935(昭和10)年に伐採され二本だけに。終戦後、「千葉街道」が拡幅されると「三本松」は道路の中央分離帯に残された。1960(昭和35)年、残っていた二本の「三本松」は老衰のため伐採され切り株のみに。1975(昭和50)年、街路樹として新たな「三本松」に植え替えられたがのちに伐採。現在は「名所 三本松」と記された石碑のみが残されている。

国府の造営と「下総国分寺」の建立 MAP __

現在の市川の地名である「国府台(こうのだい)」は飛鳥時代後期に「下総国府」が造営されたことに由来する。国府は地域を治める役割を担っていた。その後、741(天平13)年、聖武天皇が全国60余りの国に国分僧寺と国分尼寺を建立するよう命令を発し、下総国には「下総国分寺」が建立された。国家の求心力を高めるために、「国分寺」は荘厳なものであり「七重塔」をはじめ雄大な伽藍が立ち並んでいたという。図は江戸末期に描かれた「下総国分寺」。【図は1836(天保7)年】

造営当時と現在の「下総国分寺」では伽羅配置(建物の位置関係)が異なる。現在の「本堂」はかつて「金堂」があった付近に立っている。

『手児奈の伝説』から建立された「真間山弘法寺」

『手児奈(てこな)の伝説』とは、奈良時代以前、真間に暮らしていた娘・手児奈の悲劇の伝説のこと。手児奈は類まれなる美貌の持ち主であったことから、彼女を巡り多くの男性が争うようになってしまい、これに心を痛めて「真間の入江」に身を投げて自ら命を絶ってしまったという。

市川に国府が置かれ多くの人々が往来するようになると『手児奈の伝説』が都で広まり、『万葉集』にはこの伝説が題材といわれる歌が複数掲載されている。奈良時代の737(天平9)年、真間に伝わる『手児奈の伝説』を聞いた行基上人は、手児奈を弔うため「求法寺(ぐほうじ)」を建立。平安時代の822(弘仁13)年に空海上人(弘法大師)が伽藍を整備し「弘法寺(ぐほうじ)」へ改めたといわれる。鎌倉時代の1275(建治元)年、日頂上人が法論に勝ったため、「弘法寺」は「法華経」(現「日蓮宗」)の道場となった。

「手児奈祠」は室町時代の1501(文亀元)年、「弘法寺」の境内に建立された。明治期以降は「手児奈霊堂」と呼ばれるようになった。写真は昭和前期の撮影。
MAP __(手児奈霊堂) 【画像は昭和前期】

写真は現在の「手児奈霊堂」。近年は正式には「手児奈霊神堂」と呼ばれている。安産・子育て・疱瘡に霊験があるとされ、多くの参詣客が訪れる。

写真は明治期の参道の石段で、登ると「仁王門」がある。「仁王門」の扁額にある「真間山」の字は空海の筆ともいわれ、「仁王像」は運慶作と伝わる。
MAP __(仁王門)【画像は明治中期】

現在の「真間山弘法寺」の石段と「仁王門」。1888(明治21)年の火災で諸堂は焼失。その後1890(明治23)年に再建され、現在に至っている。「本堂」は1972(昭和47)年に鉄筋コンクリート造りに改築されている。

「日蓮宗」の大本山「正中山法華経寺」

鎌倉時代の若宮(現・市川市若宮)の領主・富木常忍は、鎌倉幕府御家人・千葉頼胤(よりたね)に仕えていた武士。1254(建長6)年、下総・二子浦(現・船橋市東中山一丁目)から鎌倉の外港・六浦へ向かう船で日蓮聖人と乗り合わせ、『船中問答』の末、帰依したといわれ、前年の『立宗宣言』から間もない、日蓮聖人の初期からの有力な信者として知られる。1260(文応元)年、日蓮聖人は『立正安国論』を鎌倉幕府執権・北条時頼に進言。「浄土宗」をはじめとする諸宗を邪宗とし、他国の侵略を招くと警告するも受け入れられなかった。日蓮聖人に邪宗とされた念仏信者らは反発、鎌倉・名越の草庵を焼き討ちし(『松葉ヶ谷の法難』)、日蓮聖人は常忍を頼り下総国・若宮に身を寄せ難を逃れた。この時、常忍は自邸に「法華堂」を建立、ここで日蓮聖人により『百日百座の説法』が行われ、隣接する中山(現・市川市中山)の領主・大田乗明(同じく千葉頼胤に仕えていた武士で、常忍の親戚であったともいわれる)などが帰依した。

1274(文永11)年、常忍は「法華堂」を「法華寺」とし、1282(弘安5)年の日蓮聖人の入滅後、常忍は法名を日常に。大田乗明の子で僧となった日高上人は、乗明の没後、屋敷跡を「正中山(しょうちゅうざん)本妙寺」とした。1299(永仁7)年に「法華寺」の日常上人が没すると、日高上人が貫主を引き継ぎ、「本妙寺」と「法華寺」は両山一主制に。1331(元徳3)年、両寺を合わせ「正中山本妙法華経寺」となり、のちに「正中山法華経寺」(以下「法華経寺」)が正式名となった。のちの「法華経寺」は日常上人を開祖、日高上人を二世としており、千葉氏一族の日祐上人が三世となると、千葉氏の庇護のもと、さらに発展を見せた。

図は江戸末期に描かれた「法華経寺」。図中央の「本堂」(現「祖師堂」)一帯が「本妙寺」跡(大田乗明の屋敷跡)、図右上が「奥之院」で、かつて「法華寺」があった場所になる。「本堂」の左に「祖師初説法堂」として描かれている建物は富木常忍が若宮(現「奥之院」)に創建した「法華堂」で、のちに中山へ移築されたものという。堂の様式から室町時代後期に再建されたものと考えられ、江戸時代中期に「祖師堂」付近から現在地に移築されている。「法華経寺」は江戸時代には50石余の寺領があり、「佐倉道」(のちの「千葉街道」)から「大門」に至る参道(図の左下)が門前町として発達、各地から参詣に来る信者によって賑わった。【図は1836(天保7)年】

現在「法華経寺」は「日蓮宗」の『六大本山』の一つとなっている。境内には重要文化財の「五重塔」をはじめ、多くの古い堂塔が残る。日蓮聖人が鎌倉幕府に建白した『立正安国論』の控えの真筆も所蔵しており、1952(昭和27)年に国宝に指定されている。写真は現在の「法華経寺」境内。左の大きい建物が江戸前期の1678(延宝6)年築の「祖師堂」、その奥、左端の建物が前述の「法華堂」、右の「五重塔」は江戸初期の1622(元和8)年築で、それぞれ国の重要文化財に指定されている。
MAP __(祖師堂)

写真は現在の「法華経寺」の「奥之院」。富木常忍(日常上人)の屋敷跡で、かつて「法華堂」「法華寺」があった場所でもある。写真左は2007(平成19)年に建立された日常上人像。右奥には大きな人工の滝が設置されている。
MAP __(奥之院)


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※現在の「江戸川」は、江戸時代は主に「利根川」と呼ばれていたが、本ページでは「江戸川」と表記している。



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