市川市北部の台地付近は、縄文時代に遠浅の入江となっていて絶好の漁場であったため、台地上には1893(明治26)年に発見された「姥山貝塚」をはじめ、「曽谷貝塚」、「堀之内貝塚」の『三大貝塚』を含む貝塚が55ヶ所発見されるなど全国有数の貝塚密集地域となっている。また、「千葉街道」沿い南北約0.5~1km、東西約4kmの範囲に「市川砂州」と呼ばれる地形が広がる。砂州上にはかつて防砂林などに利用された黒松が群生しており、独特の景観をつくりあげてきた。写真はかつて「千葉街道」沿いにあり「三本松」と呼ばれた老樹。明治天皇から行幸の際に賛辞を賜ったという。
今から約15万年前、現在の「関東平野」は「古東京湾」と呼ばれる海の底であった。氷河期に入ると海岸線が後退、市川市域に人が住み始めたのは、今から約2万年前といわれている。約3千年前に海退が始まり「市川砂州」が発達すると、後背湿地としての入江ができた。砂州上には黒松が分布し、現在でも市街地に独特の景観を生み出している。奈良時代に入ると、律令制のもとで仏教を根幹に据えた国づくりが進められ、「下総国府」と「下総国分寺」が設置された。その後、奈良時代の僧・行基によって開刹された「求法寺」(現「真間山弘法寺」)や、鎌倉仏教を代表する僧・日蓮に帰依した領主によって開かれた「法華経寺」などが建立された。これらの寺院は信者たちを全国から集め、今日の市川が発展する礎となっていった。