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明治期までの千種・東山


「末森城」と「城山八幡宮」 MAP 1

「末森(すえもり)城」は、戦国時代の1547(天文16)年に織田信秀(信長の父)が築城、居城とした平山城。「東山丘陵」の南端に位置し、三河国松平氏や駿河国今川氏などの侵攻に備えた。城中に1553(天文22)年に祀られた「白山社」は廃城後も残った。写真は1927(昭和2)年に建立された「末森城址」の碑で、この碑は現存している。【画像は1940(昭和15)年頃】

現在の春里町二丁目の南端付近にあった「八幡社」は、永禄年間(1558年から1570年)創建といわれる。1908(明治41)年、「白山社」をはじめ近隣の社が合祀され、1912(明治45)年、「末森城址」が「八幡社」の所有となり、1936(昭和11)年に現在地の「末森城址」に遷座した。写真は遷座して間もない1937(昭和12)年頃の撮影。【画像は1937(昭和12)年頃】

1956(昭和31)年に現在の「城山八幡宮」に改称されている。

江戸前期に築造された「猫ヶ洞池」 MAP 2

江戸期、全国の各藩は領内の農業による収益性を上げるため、新田開発や灌漑用のため池、用水の整備などを行った。「猫ヶ洞(ねこがほら)池」は尾張徳川家二代目藩主、徳川光友の命で築造され、「上池」は1664(寛文4)年、「下池」は1666(寛文6)年に完成、池から用水が引かれ灌漑に利用された。図は『尾張名所図会』に描かれた「猫洞池」。池名の由来は、古くは金児硲(かねこはざま)と呼ばれた地であり、「かねこ」が「猫」に転じ、「はざま」は谷のことで「洞」と同じ意味であることから、「猫ヶ洞」となったという説もある。【図は江戸末期】

写真は池の南端付近からの撮影で、左側が堰堤。「下池」は1934(昭和9)年頃に埋め立てられ、現在はかつての「上池」が残る。

「山崎川」流域の洪水対策として1963(昭和38)年から1974(昭和49)年にかけて、概ね地下水路からなる「千種台川」が整備された。「山崎川」上流部流域の雨水は「東山公園」の北にある「新池」から地下水路で「猫ヶ洞池」へ送られ、池の水位が上昇すると写真の余水吐(よすいばき)から地下水路を経由して「矢田川」に排水される。 MAP 3(余水吐)

明治期の「千種駅」

「千種駅」は1900(明治33)年の中央線の名古屋・多治見間の開通と同時に開業。場所は現在地より南、「広小路通」の「千種橋」より南側にあった。名古屋の市街地の西側に位置する「名古屋駅」とは市中心部を通る「広小路通」で結ばれ、東側の入口の駅となった。1903(明治36)年には、市街地中心部から「千種(のちの西裏)停留場」(当時の「千種駅」の北)まで路面電車が延伸された。 MAP 4【画像は1910(明治43)年頃】

旧「千種駅」からは、1906(明治39)年に「名古屋陸軍兵器支廠」へ、大正後期には「大日本麦酒名古屋工場」(跡地は「イオンタウン千種」「高松南公園」など)へ貨物の専用線が引かれていた。写真は「広小路通」が中央線を跨ぐ「千種橋」から旧駅方面を撮影。旧駅の跡地はほとんど売却されてビルなどが建っている。

現在の中央線「千種駅」。1960(昭和35)年、栄町・池下間に地下鉄が開通し「千種駅」が開業、翌年、中央線の駅が約400m北の現在地に移転し乗換えに便利になった。駅前には「河合塾」の本部をはじめ、予備校・塾が多い。 MAP 5


千種区誕生までの略史

現在の千種区は、概ね明治初期の古井(こい)村、末森村、丸山村、鍋屋上野村からなっている。旧村の概要は次の通り。

古井村には、弥生時代の創建ともいわれ、式内社でもある「高牟(たかむ)神社」があり、古くから農耕が行われていたと考えられる。「飯田街道」(江戸期には「駿河街道」などと呼ばれた)沿いの村としても栄えた。1876(明治9)年、周辺の村の一部と合併して千種村となるが、村名の由来は不明だという。明治後期以降、中央線「千種駅」の開業や、路面電車の開通により、工業・商業地として発展、1902(明治35)年に千種町となった。古井の地名の由来は各所に清泉が湧き出ていたためともいわれ、1926(大正15)年にはビール工場も作られた。

末森村は、戦国時代に織田信長の父、織田信秀が「末森城」を築城した地。のちに、菩提寺として「桃巌寺」も建立された(当初の場所は現在の穂波町付近、江戸前期に現在の四谷通に移転)。東山一帯は古くから陶器が作られてきた地で、末森の「すえ」は陶物(すえもの)に由来するともいわれる。「末森」は「末盛」と表記されることもあり、現在は末盛通という町名がある。江戸前期には農業用のため池として「猫ヶ洞池」が築造され、末森、丸山、古井などの村々の灌漑に利用された。

丸山村は古井村から分かれた開拓村で、16世紀後半に「丸山神明社」が創建されている。1876(明治9)年、この丸山村と末森村などが合併して田代村となっている。

鍋屋上野村(古くは上野村と呼ばれた)の地には、平安時代の陰陽師・安倍晴明が一時期居住したという伝承があり、現在はゆかりが伝わる神社として「晴明神社」「上野天満宮」、町名として「清明山」がある。「鍋屋」は、尾張藩の鋳物師頭・水野家の祖先が戦国時代に住んでいた地であったことに由来するという。尾張藩の御用医師だった張振甫(ちょうしんぽ)は江戸初期に明から亡命・帰化した王族の一人。振甫は鍋屋上野村と古井村の境付近に屋敷を構え薬師を祀った。脇侍の仏像は円空が「名古屋城」築城の余材を使い鉈(なた)一本で彫ったものといわれることから「鉈薬師」と呼ばれ、元は「焙烙(ほうろく)街道」沿いにあったが、明治末期に現在地に移された。振甫の墓は現在も「焙烙街道」沿いに残るほか、町名、中学校名などにもその名が残る。村内には「山口街道」も通り、その坂に一軒の茶屋があったことが「茶屋が坂」という地名の由来となっており、その「山口街道」沿いに、大正期に「鍋屋上野浄水場」が完成、現在に至るまで名古屋の水道を支えている。1906(明治39)年、この鍋屋上野村と田代村が合併し東山村となっている。

1921(大正10)年、名古屋市は周辺町村を合併、いわゆる「大名古屋」が誕生した。このとき、千種町と東山村は名古屋市に編入となり、東区の一部となった。その後、1937(昭和12)年に旧・千種町域及び旧・東山村域が東区から分区されて千種区が誕生した。1955(昭和30)年、猪高村が名古屋市千種区に編入されたが、1975(昭和50)年に一部区域を除き名東区として分区されている。



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※現在のJR中央本線は、1900(明治33)年に官設鉄道として開業、明治期の「国有鉄道線路名称」で国鉄の中央西線、全通で中央本線、民営化でJR中央本線と変遷しているが、本ページでは中央線で統一している。



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