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「高田馬場」の歴史


旗本らの馬術の訓練のため造営された「高田馬場」 MAP __

1636(寛永13)年、三代将軍・徳川家光により、旗本らの馬術の訓練のための馬場が造営された。「高田」の由来は、この場所に徳川家康の側室「茶阿局(ちゃあのつぼね)」(子どもは越後高田藩主となる六男・松平忠輝で「高田の君(たかだのきみ)」とも呼ばれた)の別荘地があったためといわれる(戦国時代までには、この一帯の広域の地名として呼ばれていたという説もある)。江戸中期の享保年間(1716~1736年)には、「高田馬場」の北側に風除けのための松並木が植えられ、並木に沿って茶屋が軒を並べ賑わうようになった。図は歌川広重が1850(嘉永3)年に描いた「高田馬場」で、こちらの切絵図にも描かれている。【図は1850(嘉永3)年】

「高田馬場」の跡地は、西早稲田三丁目、「早稲田通り」と「茶屋町通り」で囲まれたあたりとなる。写真は「早稲田通り」の「戸塚第一小学校入口交差点」付近から東を望んでおり、この左側沿いが「高田馬場」であった。

「穴八幡宮」と流鏑馬 MAP __

「穴八幡宮」は、1062(康平5)年、源義家が「奥州平定」からの凱旋時、八幡神を祀ったのが始まりといわれる古社。1636(寛永13)年、三代将軍・徳川家光により「高田馬場」が造られると、この八幡が守護神とされ、1641(寛永18)年、境内に横穴が見つかり、中から御神像が現れたことから「穴八幡宮」と呼ばれるようになった。将軍家のほか、江戸の町民からの信仰も集め、特に「蟲封じ」の祈祷で知られた。写真は昭和戦前期の「穴八幡宮」の様子。【画像は昭和戦前期】

写真は現在の「穴八幡宮」。明治になると「神仏分離」が行われ、境内の南側は別当寺の「放生寺」の敷地となった。

八代将軍・徳川吉宗は世嗣(よつぎ)の疱瘡平癒祈願のため、1728(享保13)年に流鏑馬(やぶさめ)を「高田馬場」で行い「穴八幡宮」に奉納。以降、歴代の将軍家の厄除け祈願など、奉納のための流鏑馬が行われた。図は1738(元文3)年に描かれた『元文三年高田馬場流鏑馬之圖』の写しの一部。図中央の「穴八幡宮」から、門前町があった「八幡坂」を上り、北(図では右手)にあった「高田馬場」へ向かう騎馬の列が描かれている。【図は1738(元文3)年】

図は同じく『元文三年高田馬場流鏑馬之圖』の写しの一部で、「高田馬場」での流鏑馬の様子が描かれている。図の左上が「穴八幡宮」方面で、馬場の奥、左右に延びる道が現在の「早稲田通り」、手前が現在の「茶屋町通り」と思われる。現「茶屋町通り」沿いには、この頃に建てられたといわれる茶屋も描かれている。明治期に入ると、流鏑馬の神事は行われなくなったが、1934(昭和9)年、現在の上皇陛下の誕生を祝う奉納神事として、「穴八幡宮」の境内で再興された。戦中・戦後の中断ののち、1964(昭和39)年、「水稲荷神社」の移転後の境内で復活、1979(昭和54)年からは「戸山公園」内で「高田馬場流鏑馬保存会」が主催する流鏑馬が行われている。【図は1738(元文3)年】

「高田馬場の決闘」の地

「高田馬場の決闘」は、1694(元禄7)年、伊予西条藩の二人の藩士、菅野六郎左衛門と村上庄左衛門の口論から、「高田馬場」での果し合いに発展した事件。劣勢であった菅野は、義理の甥としての契りを交わしていた中山安兵衛の助太刀により勝利した(しかし、菅野の受けた傷も大きく、その後、息を引き取ったともいわれる)。この安兵衛の活躍を知った赤穂藩士の堀部金丸は、安兵衛を婿養子として迎え入れ、中山安兵衛は堀部安兵衛となった。そして、1703年1月(元禄15年12月)、堀部安兵衛は「赤穂義士」の一人として吉良邸への討ち入りに加わることになる。江戸中期以降、「赤穂義士」を題材とする『忠臣蔵』が人形浄瑠璃や歌舞伎などで人気になると、堀部安兵衛の若き日のエピソードとして「高田馬場の決闘」は脚色され、歌舞伎や講談などで人気の演目となった。図は歌川豊斎が1891(明治24)年に描いた、歌舞伎の演目『高田馬場仇討』の役者絵。【図は1891(明治24)年】

「高田馬場」の跡地、「茶屋町通り」沿いに1910(明治43)年に建立された「堀部武庸加功績跡碑」。
MAP __【画像は明治後期~大正期】

「堀部武庸加功績跡碑」は、1971(昭和46)年に「水稲荷神社」の境内へ移され、現在に至る。
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写真は1964(昭和39)年に撮影された「茶屋町通り」。写真では確認できないが、撮影当時、通りの左側の住宅の敷地内に「堀部武庸加功績跡碑」があった。【画像は1964(昭和39)年】

現在の「茶屋町通り」の様子。


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※本ページでは、現在の高田馬場・早稲田一帯を対象としている。
 特に明記していない場合、「戦前」「戦時中」「終戦」「戦後」「戦災」の戦争は「太平洋戦争」のことを示している。



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