1636(寛永13)年、三代将軍・徳川家光により、旗本らの馬術の訓練のための馬場が造営された。「高田」の由来は、この場所に徳川家康の側室「茶阿局(ちゃあのつぼね)」(子どもは越後高田藩主となる六男・松平忠輝で「高田の君(たかだのきみ)」とも呼ばれた)の別荘地があったためといわれる(戦国時代までには、この一帯の広域の地名として呼ばれていたという説もある)。江戸中期の享保年間(1716~1736年)には、「高田馬場」の北側に風除けのための松並木が植えられ、並木に沿って茶屋が軒を並べ賑わうようになった。図は歌川広重が1850(嘉永3)年に描いた「高田馬場」で、こちらの切絵図にも描かれている。
現在、日本でも有数の文教の地として知られる高田馬場・早稲田界隈。江戸期には下屋敷、明治期以降は別邸や日本初の私立病院も置かれるなど、静寂で自然豊かな地であった。明治期に大隈重信の別宅が置かれたことをきっかけに「早稲田大学」が誕生、多くの学生が集まる文教の地となり、周辺は学生街としても発展、交通網も整備され、現在の高田馬場・早稲田の街が形成されていった。