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近世までの丸の内・大手町


大名屋敷が建ち並ぶ「大名小路」

江戸期の丸の内・大手町一帯は、大名屋敷が建ち並ぶ武家の町であった。この一帯は、江戸期以前には浅瀬の海(「日比谷入江」)が広がっていたが、江戸期に入り、江戸の普請を命じられた有力大名たちは、ここを干拓し広大な屋敷を構えた。図は江戸末期、1849(嘉永2)年に描かれた『御江戸大名小路絵図』の一部で、右が北、上が「江戸城」(現「皇居」)。図の中央付近に「大名小路(こうじ)」の通り名が見える。【図は1849(嘉永2)年】

「大名小路」の通り名は明治期に入っても使用されていた。「大名小路」は、現在の「丸の内ビルディング」「新丸の内ビルディング」の東側を南北に延びる都道にあたり、現在も通りの愛称として使用されている。写真は「新丸の内ビルディング」前の案内標識。
MAP __(案内標識の場所)

「大手町」「丸の内」の地名の由来 MAP __(大手門)

「大手町」は1872(明治5)年に命名された町名で、旧「江戸城」の正門「大手門」に由来する。「大手門」は江戸初期の1607(慶長12)年、築城の名手として知られた津藩初代藩主・藤堂高虎により築かれた。「江戸城」の表門であり、諸大名が登城する際にも利用された。写真は明治後期~大正前期の「大手門」。

「丸ノ内」は、「城郭の堀で囲まれた内側」という意味で、江戸期には大名屋敷が建ち並んでいた。1872(明治5)年に「永楽町」「八重洲町」などの町名がつけられたが、「丸ノ内」は通称地名として引き続き使用されていた。1929(昭和4)年、震災復興の町名整理の際、正式に「丸ノ内」という町名が誕生、1970(昭和45)年、町名の表記が「丸の内」に変更され、現在に至る。【画像は明治後期~大正前期】

「大手門」は1945(昭和20)年、「太平洋戦争」中の「東京大空襲」で焼失した。写真は現在の「大手門」で、1967(昭和42)年に復元されたもの。

「大蔵省」の敷地内にあった「将門塚」 MAP __

「神田明神」は730(天平2)年、出雲出身の真神田臣(まかんだおみ)により現在の千代田区大手町付近に創建された社がはじまりといわれる。940(天慶3)年、「天慶の乱」で平将門が敗れ、首が京都で晒された時、東国へ飛び去ったという伝説があり、飛来したとされる地、現在の大手町一丁目に「将門塚(まさかどづか、しょうもんづか)」)が造られた。この塚の周辺で天変地異が頻発すると「将門の祟り」とされ、それを鎮めるため1309(延慶2)年に「平将門命(みこと)」を祀って「神田明神」と呼ぶようになり、その後、太田道灌、北条氏綱、徳川家康などの戦国武将からの崇敬も受けた。江戸幕府が開かれると、1616(元和2)年、「神田明神」は「江戸城」の表鬼門守護にあたる神田に遷座されたが、「将門塚」はこの地に残された。

その後、「将門塚」を含む一帯は「姫路藩酒井家上屋敷」などの大名屋敷となり、その中庭に「将門塚」があった。明治期以降は、「大蔵省」(現「財務省」)の敷地内、東側の門を入って左手の中庭に「将門塚」があった。写真は1907(明治40)年頃撮影の「大蔵省」の中庭。【画像は1907(明治40)年頃】

明治期以降、将門は朝敵とされていたが、明治後期になると復権運動が展開されるようになり、1906(明治39)年、「大蔵省」中庭の「将門塚」上に、当時の大蔵大臣の撰文で「古蹟保存碑」(写真右)が建立された。しかし、この碑は震災で破損した。震災後、仮庁舎を建設するため中庭の池は埋立てられ、このとき「将門塚」は削られた。すると、1926(大正15)年の現職の大蔵大臣の死去をはじめ、「大蔵省」職員や工事関係者の不審な死や怪我が続いたため「将門の祟り」と考えられるようになり、仮庁舎は撤去され、1927(昭和2)年に「将門塚」を復元、1940(昭和15)年には「古蹟保存碑」も再建された。【画像は1907(明治40)年頃】

写真は現在の「将門塚」。「将門塚」の同街区内で行われていた「Otemachi One」の再開発事業の完了に合わせ、2020(令和2)年から翌年にかけて、改修工事が行われた。現在は「神田明神」の宮司と周辺企業などで構成されている「史蹟将門塚保存会」が、「将門塚」の保存・管理と慰霊祭を行っている。


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※本ページでは、現在の丸の内一丁目・二丁目、大手町一帯を対象としている。
 特に明記していない場合、「震災」は「関東大震災」、「戦前」「戦時中」「終戦」「戦後」「戦災」の戦争は「太平洋戦争」のことを示している。



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