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物流の結節点から城下町へ


物流の結節点となった「大物浦」 MAP __(大物橋跡)

今から6千年ほど前、尼崎市域のほとんどは海底にあった。海岸線が南下し人々が暮らし始めたのは弥生時代のこと。784(延暦3)年から785(延暦4)年にかけて、「長岡京」の遷都に伴い「神崎川」と「淀川」をつなぐ水路が開削されると、「神崎川」は都と瀬戸内、西国を結ぶ交通路となり、平安時代後期には川船と渡海船を乗り換える河口の港が栄えた。このうち「大物(だいもつ)浦」は謡曲『舟弁慶』ゆかりの地としても知られ、『平家物語』など様々な作品に取り上げられている。平家滅亡後、源頼朝との対立が激しくなった義経は都落ちを決意し、西国を目指して「大物浦」から船出したとされている。錦絵は嵐に翻弄される義経一行と、海中には義経が滅ぼした平家の亡霊が描かれている。【図は弘化~嘉永年間】

現在は埋め立てられ、海岸線ははるか沖合いへと移っている。画像は「大物橋北」交差点付近にある「大物橋跡」の碑。

弥生時代の大規模集落跡「田能遺跡」 MAP __(田能資料館)

尼崎の平野に人が住み始めた弥生時代の遺跡が、尼崎市内で複数確認されているが、代表的なものに「田能(たの)遺跡」がある。「田能遺跡」は弥生時代の大規模集落跡で、水稲耕作の開始とともに多くの人々がこの地に住み始めたことを示すもの。1965(昭和40)年9月に行われた尼崎・伊丹・西宮3市共同による「工業用水園田配水場」の建設工事中に弥生土器が発見、その後の調査で住居跡や柱穴、土坑、溝、墓などの遺構が貴重な遺物とともに発掘された。【画像は1966(昭和41)年頃】

現在は史跡公園として整備されており、公園内にある「田能資料館」では出土品などの展示を通して、「田能遺跡」について学ぶことができる。

奈良時代に成立した「猪名荘」 MAP __(案内標)

743(天平15)年、「墾田永年私財法」が発布されると、貴族や寺社は荘園を持ち始めた。756(天平勝宝8)年に聖武上皇が崩御すると、孝謙天皇が供養として「東大寺」に荘園を寄進。これが「猪名荘(いなのしょう)」で、現在の尼崎市東南部の「神崎川」西岸沿い、JR「尼崎駅」付近に広がっていた。絵図は寄進の際に作られたものの写し。碁盤目状の条里が描かれ、各坪に坪数や耕地面積などの必要な記載がなされているほか、当時の面積、摂津職の官吏の名前などが記載されている。絵図が作成された時期は明確でないが、平安時代に開発が進んだ部分が追記されているため、12世紀頃の写しだと考えられる。絵図の中央上部に「宮宅地」と書かれた部分があり、ここが「猪名荘」の経営の中心地だったと考えられている。【絵図は12世紀頃】

平安時代に入り海辺へ開発が進むと、新開地の権利を巡り「東大寺」と、摂津国司や京都の「下鴨神社」との間で相論を繰り返し、次第に衰退していった。1997(平成9)年に再開発事業に伴う発掘調査が行われた際、奈良時代後期の遺跡が見つかり、発掘地点が「宮宅地」だと推定されている。写真は発掘地点付近で、写真左手に「猪名荘遺跡」の案内標が設置されている。


「尼崎城」の築城

「尼崎城旧図」

明治後期に出版された地図に掲載された「尼崎城旧図」。【図は1909(明治42)年出版】

文献記録の上で、「尼崎城」は二度築かれた歴史がある。一度目は戦国時代、1526(大永6)年に細川高国が諸将に命じて海上交通の要衝だった大物付近に築城した。その詳しい場所は明らかではないが、近世「尼崎城」の本丸の北東と推定され、天守がなく櫓ばかりで、堀は50間(約90m)四方にすぎなかったと伝えられている。その後は織田信長、豊臣秀吉の台頭とともにその配下に置かれた。

近世に入り大阪が幕府の西国支配の最重要拠点となると、大阪と西国の分岐点に位置する尼崎は軍事的要衝として重要視されることとなった。1617(元和3)年、尼崎代官だった外様大名の建部政長に代わり、徳川家からの信頼が厚い譜代大名・戸田氏鉄が配置され、近世「尼崎城」の築城が命ぜられた。氏鉄が普請した「尼崎城」の特徴は、本丸が方形、天守が四重であり、本丸大書院が特異な平面をとっていたという。新城が築かれた当時は土木・建築の築城技術が最も整備されていた時期にあたっていた。 MAP __(近世の天守跡地)

近世の「尼崎城」址

近世の「尼崎城」址。【画像は大正初期】

氏鉄は1635(寛永12)年に美濃(現・岐阜県)大垣に転封となり、その後は青山氏、松平氏に引き継がれ明治維新まで藩政支配が続いたが、廃藩置県後に政府により全国の城郭に廃城命令が下された。建物撤去に続き大正期にかけて濠も埋め立てられ、学校用地などに転用されていった。その遺構は1987(昭和62)年の共同住宅建設の際に発掘され、その後もたびたび調査・発掘されている。

最後の藩主であった松平忠興は「櫻井」と改姓。この櫻井家の分家に生まれた櫻井忠剛(ただかた)は、日本近代洋画を代表する画家のひとりとなり、関西を中心に活躍。一方で、1905(明治38)年に尼崎町長となり、後には初代尼崎市長も務めた。

復元された「尼崎城」

2018(平成30)年に復元された「尼崎城」。

2015(平成27)年、尼崎市を創業地とする家電量販店・旧「ミドリ電化」(現「エディオン」)の創業者・安保詮(あぼあきら)氏が「尼崎城」の復元を申し出て、私財約12億円を投じ「尼崎城」を建設。築城400年の2018(平成30)年に完成し尼崎市へ寄贈され、翌年より一般公開されている。場所はかつての天守の場所より250mほど北西に位置し、鉄筋コンクリート造となっているが、外観や寸法は再現されている。 MAP __(復元された天守)



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