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明治期以降の月島・佃周辺

明治期以降、月島・佃一帯で埋立てが行われ、新たな工業地が誕生した。島内には労働者が暮らすようになり商業も発展したほか、渡しや架橋など島外との交通も発達した。


大正期までの東京湾岸の埋立地と「東京港」の開港

明治末期に撮影された浚渫船「駒形丸」

写真は明治末期、「隅田川口改良工事」の第一期が竣工した頃に撮影された浚渫船「駒形丸」。
【画像は明治末期】

明治期以降、「隅田川」の河口付近では、土砂の流入による浅瀬化が進み、船の運行に支障が出るようになっていた。また、東京の民間・行政から築港の要望もあり、1880(明治13)年には東京府知事が「東京港築港論」の提案も行っている。こうしたことから、東京府は1883(明治16)年以降、「隅田川」の河口付近で航路を確保するための浚渫(しゅんせつ)工事、「東京湾澪浚(みおさらい)」を実施。大量に出る浚渫土は、当初「佃島」沿岸の土捨場に投棄されていたが、1887(明治20)年以降は浚渫土を活用した土地造成を行うようになった(事業は1889(明治22)年に、新設された東京市へ移管)。その後、1906(明治39)年からは「東京築港」を前提として浚渫と埋立てを行う「隅田川口改良工事」を着工、第一期が1911(明治44)年まで、第二期が1922(大正11)年まで、第三期が1935(昭和10)年まで行われた。

大正期の月島・佃島の地図

1919(大正8)年発行の地図の月島部分。左下が「月島三号地」で、こののち、多くの工場が立地するようになった。
【図は1919(大正8)年】

この埋立てにより、1892(明治25)年に「月島一号地」として誕生したのが現在の月島。1894(明治27)年に「月島二号地」(現・中央区勝どき一~四丁目)、1896(明治29)年に新佃島(現・中央区佃二丁目南部および佃三丁目)、1913(大正2)年に「月島三号地」(現・中央区勝どき五・六丁目)が誕生している。月島の地名は、築地と同様、海に新たに築かれた島「築島」が由来といわれるほか、江戸期から湾内にあった月見の名所「月の岬」から名付けられたという説もある。

「関東大震災」を契機として、経済界を中心に「東京開港」が望まれ、さらに1931(昭和6)年の「満州事変」以降は、東アジアとの貿易量も著しく増加、「東京開港」の機運が高まった。既に国際貿易港として発展していた横浜は「東京開港」に激しく反対したが、1941(昭和16)年5月の閣議で「東京港」を国際港として開港することが決定され、同月「東京港」が開港した。しかし「東京港」は主に東アジアとの貿易に使用され、また外国船舶の出入りは禁止されていたため、外国貿易の中心は引き続き「横浜港」であった。

「東京港」の開港と同年の12月、日本は「太平洋戦争」に突入、さらに、戦後、港湾設備のほとんどが連合国に接収されたこともあり、「東京港」が国際貿易港として大きく飛躍するのは昭和40年代以降になる。


「石川島」での造船業 MAP __

1853(嘉永6)年の黒船来航を受け、江戸幕府の命により、水戸藩は「石川島」に日本で最初の洋式造船所「石川島造船所」を開設、幕末期に洋式軍艦「旭日丸」、蒸気軍艦「千代田丸」などが建造された。「明治維新」後は官営となっていたが、1876(明治9)年に横須賀に移転することになった。同年、造船所の移転を聞きつけた平野富二(「東京築地活版製造所」を経営し成功を収めていた)が跡地を借り受け(のち払い下げ)、日本初の民間造船所「石川島平野造船所」(現「IHI」)を設立した。平野は、かねてから造船業を興すことを志しており、ここでは「長崎製鉄所」時代の知識を生かした造船・船の修理のほか、印刷機を含め機械製造も行われた。1889(明治22)年には浅草「凌雲閣」に設置された国産第1号となるエレベータも完成させている。1893(明治26)年に「東京石川島造船所」へ改称、渋沢栄一が会長に就任した。図は1903(明治36)年に描かれた「東京石川島造船所」の鳥瞰図。【図は1903(明治36)年】

その後、「東京石川島造船所」は軽便鉄道用車両をはじめ、陸・空の輸送機械も製造するようになり、1924(大正13)年には月島に「石川島飛行機製作所」(のちの「立川飛行機」)が、1929(昭和4)年には造船所内に「石川島自動車製作所」(現「いすゞ自動車」の前身の一つ)が独立している。写真は大正前期の「東京石川島造船所」で、対岸の霊岸島(現・新川二丁目)から望んでいる。【画像は大正前期】

「東京石川島造船所」は1945(昭和20)年に「石川島重工業」、1960(昭和35)年に「石川島播磨(はりま)重工業」、2007(平成19)年に「IHI」と改称している。「石川島造船所」時代からの歴史を引き継いでいた「佃工場」は1979(昭和54)年に廃止。跡地で官公民共同による大規模な再開発「大川端リバーシティ21開発事業」が行われることになり、1986(昭和61)年に着工、2010(平成22)年に最後となる建物が完成した。写真は現在の「リバーシティ21」で、タワーマンションなどが建てられている。右に見える橋は1993(平成5)年に開通した「中央大橋」。

震災前の月島

埋立て直後の月島は閑散とした土地であったが、明治後期頃から工業地として発展、労働者も多く暮らす街となった。1920(大正9)年の調査では、月島の人口は約3万人、工場は214軒となっている。写真は「関東大震災」(以下震災)前、1921(大正10)年頃の「西仲通り」の様子で、このあたりは、すでに月島の商業の中心地であった。【画像は1921(大正10)年頃】

現在の「月島西仲通り3番街」。過去の写真の撮影場所付近はこのあたりと思われる。現在、この通りにはご当地グルメ「月島もんじゃ」の店舗も多く、「月島もんじゃストリート」とも呼ばれ、多くの観光客も訪れている。
MAP __

震災復興期の月島 MAP __

震災時、月島一帯は築地方面から「隅田川」を渡ってきた飛び火によりほぼ焼失したが、重要な工業地であったことから震災復興は早かった。写真は1931(昭和6)年頃の撮影。この通りは、当時は「月島通り」と呼ばれていた。中央を走る路面電車は、震災の直前、1923(大正12)年7月に開業した市電(のちの都電)月島線。左奥に見える高層の建物は1888(明治21)年創立の「東京市佃島尋常小学校」で、1931(昭和6)年に震災復興小学校として鉄筋コンクリート建築の校舎が完成している。【画像は1931(昭和6)年頃】

写真は現在の同地点付近の様子。この通りは現在は「清澄通り」の一部となっている。都電月島線は1972(昭和47)年に廃止。2000(平成12)年、この通りの地下に都営大江戸線が開通し「月島駅」が設けられた。「東京市佃島尋常小学校」は戦後に「中央区立佃島小学校」となったのち、1988(昭和63)年に現在の校地へ移転しており、跡地は「中央区立月島スポーツプラザ」となっている。

佃と月島の渡し

「佃の渡し」は、「佃島」の築島が完成した1645(正保2)年に島民が江戸市中へ行くための交通手段として始まった。その後、「佃島」の祭りや藤の花の名所などに訪れる人々も利用するようになり、江戸期を通じて賑わった。明治初期までは島民による不定期の運行であったが、1883(明治16)年より定期運航に。1926(大正15)年からは東京市営(のち都営)となり、1927(昭和2)年に渡船場の施設が完成した。写真は1962(昭和37)年頃の様子で、湊町(現・中央区湊三丁目)側から「佃島」方面を望んでいる。
MAP __(湊町側の渡船場跡)
MAP __(佃島側の渡船場跡)【画像は1962(昭和37)年頃】

写真は1962(昭和37)年頃、湊町(現・中央区湊三丁目)側から「佃島」方面の遠景。写真奥に見える6本の煙突は「新東京火力発電所」、その左のクレーンは「石川島播磨重工業」の造船所。【画像は1962(昭和37)年頃】

「佃の渡し」は「隅田川」で最後まで残った渡しであったが、1964(昭和39)年の「佃大橋」完成により廃止、江戸初期から昭和に至る約320年間の歴史に幕を閉じた。写真は湊町側の渡船場跡付近から「佃島」側の渡船場跡方面を望んでいる。右に架かる橋が「佃大橋」で、橋の下を通る船は「浅草吾妻橋」~「お台場海浜公園」間で運行されている「東京都観光汽船(TOKYO CRUISE)」の水上バス。

「月島の渡し」は、「月島一号地」(月島)の埋立てが完成して間もない1892(明治25)年、私設・有料の手漕ぎ船で始まったといわれる。1903(明治36)年に「相生橋」が開通するまで「佃島」「月島」には築地や深川へ渡る橋がなく、また「相生橋」開通後も、都心方面を結ぶ交通手段として、渡しは重要であった。1901(明治34)年に東京市営となり、汽船曳船による無料の渡船が運行開始となった。その後、月島は臨海の工業地域として発展し、1911(明治44)年には終夜運行も開始となった。写真は昭和戦前期の「月島の渡し」の月島側の渡船場。
MAP __【画像は昭和戦前期】

「月島の渡し」は明治から昭和に至るまで、住民や工場労働者の重要な交通機関であったが、1940(昭和15)年に「勝鬨(かちどき)橋」が架橋されたことにより廃止となった。写真は現在の月島側の渡船場跡から築地方面を望む。

「佃島」「月島」から島外へ架けられた最初の橋「相生橋」 MAP __

「佃島」「月島」は築島以来、築地や深川への橋がなく、島外への往来には渡しなど船を利用する必要があった。明治中期以降、工業地として発展したことから、交通や水道のため架橋が望まれるようになった。1903(明治36)年、新佃島(現・中央区佃)と「中の島」間に大橋、「中の島」と越中島町(現・江東区越中島)間に小橋と、2本の橋からなる「相生橋」が架橋され、水道管も通された(こちらの地図右上付近)。写真は明治後期の様子で、「中の島」から新佃島方面を望んだものと思われる。1923(大正12)年7月には「相生橋」を通り月島まで市電が開通したが、同年9月の震災により「相生橋」は焼失した。【画像は明治後期】

「相生橋」は、国の機関である「復興局」が震災復興を担当した「隅田川六大橋」(他は「永代橋」「清洲橋」「蔵前橋」「駒形橋」「言問橋」)の一つとなり、1926(大正15)年に再架橋が完了した。写真は昭和初期の「相生橋」で、新佃島側から「中の島」方面を望んでいる。「中の島」には1927(昭和2)年に「隅田川」唯一の水上公園「中の島公園」が整備され、当時はもの珍しさから賑わったという。【画像は昭和初期】

写真は現在の「相生橋」で、1998(平成10)年に今の橋に架け替えられた。「中の島公園」は1973(昭和48)年に一旦閉鎖されたが、整備の上、1980(昭和55)年に再開園している。

国内最大規模の跳開橋「勝鬨橋」 MAP __

「月島二号地」(現・中央区勝どき)と築地の間には、1905(明治38)年、「日露戦争」での旅順陥落を記念して、有志により「勝鬨の渡し」が開設された。この区間の架橋は明治期より数回計画があったが、実際に着工となったのは1933(昭和8)年。その後、1940(昭和15)年に開催予定の「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」のメインゲートとしても利用されることになった(「万博」は1938(昭和13)年に延期(実質中止)が決定)。橋は1940(昭和15)年に完成し、渡し名より「勝鬨橋」と命名された。当時はまだ、水運が盛んであったため、「隅田川」を航行する大型船舶も通航できるよう、写真のように可動する跳開(ちょうかい)橋として造られた。写真は1956(昭和31)年撮影の「勝鬨橋」で、跳開が始まっている。【画像は1956(昭和31)年】

写真は1956(昭和31)年撮影の跳開された「勝鬨橋」。写真では小型船舶が通航しているが、跳開中は大型船舶も通航できた。当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していたが、戦後、船舶通航量の減少と、道路交通量の増大により跳開する回数は徐々に減少し、1967(昭和42)年に通航のためとしては最後となる跳開が行われ、1970(昭和45)年を最後に跳開されなくなった。【画像は1956(昭和31)年】

写真は現在の「勝鬨橋」。橋の下を通る船は「東京都観光汽船(TOKYO CRUISE)」の水上バス「ホタルナ」で、漫画・アニメ界の巨匠・松本零士氏による、宇宙船をイメージしたデザインとなっている。「勝鬨橋」は、国内最大規模の跳開橋で、橋梁技術史上も高い価値があり、2007(平成19)年には国の重要文化財に指定された。

「勝鬨橋」上には、1940(昭和15)年の完成当初より路面電車のレールが敷設されていたが、開通は戦後の1947(昭和22)年であった。写真は「勝鬨橋」上が開通した時の都電勝鬨橋線。この区間は1968(昭和43)年に廃止となった。【画像は1947(昭和22)年】


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※本ページでは明治期の月島の埋立て地「一号地」~「四号地」を「月島一号地」~「月島四号地」、大正期の「第三期隅田川口改良工事」以降の「第4号埋立地」~を「4号地」~と表記している。



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