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江戸期からの行楽地 「飛鳥山」と「滝野川」


王子の地名の由来となった「王子神社」 MAP __

「王子神社」は、創建年代は不詳で、古くから紀州「熊野三山」の「熊野権現」が祀られていたという。1322(元亨2)年、武蔵国豊島郡の一帯を本拠とした中世の武家・豊島氏は、紀州の「熊野三山」より「王子大神」を勧請し、「若一王子宮(にゃくいちおうじぐう)」として再興。戦国時代には後北条氏、江戸時代には徳川将軍家の庇護の下で発展、「王子権現社」と呼ばれ江戸の名所となった。三代将軍・家光は社殿を造営、特に「紀州徳川家」出身の八代将軍・吉宗は紀州との所縁から、1737(元文2)年に「飛鳥山」を寄進している。明治になると神仏分離が行われたため、「王子権現社」は「王子神社」へ改称された。写真は明治後期~大正前期の「王子神社」。【画像は明治後期~大正前期】

「王子神社」は「東京大空襲」で社殿をはじめ境内のほとんどを焼失。社殿は1964(昭和39)年に再建され、1982(昭和57)年に現在の社殿となった。写真は現在の「王子神社」で、王子の地名の由来ともなっている。

「飛鳥山」の桜

八代将軍・徳川吉宗は1737(元文2)年に「王子権現」へ「飛鳥山」を寄進し、桜を植樹。その後、江戸庶民の行楽地として開放し、桜の名所となった。図は歌川広重が幕末期の1858(安政5)年頃、『富士三十六景』で描いた「飛鳥山」。西側(図右)には「富士山」が描かれている。
MAP __【図は1858(安政5)年頃】

1873(明治6)年1月、政府は各府県に公園を設定するよう「太政官布達」を発した。「太政官布達」では、古くからの名所旧跡など多くの人が集まる場所を「公園地」とするようにあり、東京府は上野浅草・飛鳥山・深川(いわゆる「東京五公園」)を選定。「東京五公園」は同年3月に「公園地」に指定され、日本における最初の公園となった。写真は現在の「飛鳥山公園」で、桜の名所としての賑わいも引き継がれている。わずかながら「富士山」が見える場所もある。

図は江戸後期の1800(寛政12)年頃、葛飾北斎が『東都名所一覧 乾』で描いた「飛鳥山」。図中央には1737(元文2)年に吉宗の功績を顕彰するために建てられた「飛鳥山碑」が見える。
MAP __【図は1800(寛政12)年頃】

写真は現在も残る「飛鳥山碑」。

写真は、昭和40年代に「北区役所」屋上から撮影した「飛鳥山公園」。中央左には、1970(昭和45)年、「飛鳥山公園」に開業した回転式展望タワー「スカイラウンジ」(通称「飛鳥山タワー」)が見える。1990(平成2)年、「王子駅」東側の貨物ヤード跡地に、北区の文化施設「北とぴあ」が完成、17階に展望ロビーができたこともあり、「飛鳥山タワー」は1993(平成5)年に廃止、解体された。2009(平成21)年、「王子駅」の「中央口」前から、かつて「飛鳥山タワー」があった山頂付近まで「飛鳥山公園モノレール」(車両の愛称は「アスカルゴ」)が開業している。
MAP __飛鳥山タワー跡地【画像は昭和40年代】

四季を通じて賑わった「滝野川」

八代将軍・徳川吉宗は「石神井川」(このあたりでは「滝野川」とも呼ばれた)沿いにカエデの植樹も行っており、その後、紅葉の名所として発展した。図は幕末の1856(安政3)年、歌川広重が描いた『名所江戸百景 王子滝の川』。かつて、このあたりの「石神井川」は蛇行していた。中央左の橋は「松橋」で、橋の右下に見える鳥居のある岩屋は、弘法大師作といわれる弁財天像が祀られていた「松橋弁財天」。右端に見える「弁天の滝」は、昭和初期には涸れていたという。右上には「金剛寺」の屋根が描かれている。図内には水遊びをしている人が見えることから、夏の様子と思われる。このあたりは、江戸期から、春には桜、夏には水遊び、秋には紅葉と、四季を通じて賑わう地であった。
MAP __【図は1856(安政3)年】

「石神井川」は、1975(昭和50)年頃に直線的に改修された。湾曲していた部分は「音無もみじ緑地」として整備され、1981(昭和56)年に開園している。現在、「松橋弁財天」と「弁天の滝」の痕跡はないが、「金剛寺」(写真では右上に屋根が少し見える)は同じ場所にある。

写真は明治初期の「滝野川」の様子。正面が「松橋」で、前掲の『名所江戸百景 王子滝の川』の対岸からの撮影となる。
MAP __【図は明治初期】

現在の「音無もみじ緑地」を北側から撮影。現在も桜や紅葉の名所となっている。

「石神井川」(「滝野川」)は、吉宗ゆかりの地である紀州の川名をとって「音無川」とも呼ばれた。震災復興期、「飛鳥山」から中十条方面へ向かう道路の整備が進められた。「石神井川」には「音無橋」が架橋され、1930(昭和5)年に完成した。
MAP __【画像は昭和戦前期】

「石神井川」流域は1958(昭和33)年に「狩野川台風」で大きな被害を受け、翌年より、本格的な護岸工事が始められた。「王子駅」付近では1966(昭和41)年から1968(昭和43)年にかけて、「飛鳥山」の下に約472mのバイパスとなるトンネル「飛鳥山分水路」が作られた。旧流路の一部は、「音無親水公園」として整備され、1988(昭和63)年に開園した。写真は現在の「音無橋」と「音無親水公園」。

江戸でも著名な料理屋であった「扇屋」

行楽地となった「飛鳥山」「石神井川」(「滝野川」)一帯は、江戸後期になると料理屋も発展し、なかでも「海老屋」「扇屋」は当時の江戸の料理屋番付で上位に入る有名店であった。写真は明治初期の撮影で、中央が「石神井川」、右の建物が「扇屋」で、対岸(写真左手)には「扇屋」の庭園が広がっていた。「海老屋」は、「扇屋」の隣、写真では奥側にあった(この写真では見えない)。
MAP __(明治期の場所)【画像は明治初期】

写真は現在の同地点の様子。このあたりの「石神井川」の旧流路は「音無親水公園」になっている。写真左手、かつての「扇屋」の対岸、庭園であった場所に「新扇屋ビル」がある。「扇屋」は戦後、この場所で料亭を営業していたが、現在は閉店し「新扇屋ビル」の一画で玉子焼の販売のみを行っている。「扇屋」の玉子焼は、開国した頃に外国人に教わって以来の名物という。
MAP __(現在の扇屋)

江戸期に始まり、昭和戦前期にはレジャー施設となった「名主の滝」 MAP __

「名主の滝」は、江戸末期の安政年間(1854年~1860年)、王子村の名主が自邸に開いたのが始まりで、徳川将軍家の鷹狩りの際も休憩所に使用されたという。明治中期頃に有料の庭園として整備され、舟遊びなどを楽しむことができ、夏には避暑客も多く訪れた。滝は遅くとも大正後期までには電気により人工的に揚水して落とすようになっていた。【画像は明治後期~大正前期】

画像は明治後期~大正前期の様子。園内の渓流には鯉などが放流され、それをすくい獲る「魚すくい」(写真)が人気だった。1938(昭和13)年に「精養軒」が買収し、食堂やプールなどがあるレジャー施設となり、1940(昭和15)年頃には温泉も湧出し大浴場を開設。戦後も一時期、「名主の滝遊園地」として「精養軒」が夏季営業を行った。【画像は明治後期~大正前期】

1957(昭和32)年、都市計画で公園に指定され、その後、東京都が買収し、1960(昭和35)年、有料の「東京都立名主の滝公園」として開園。1975(昭和50)年に北区へ移管された。現在、「名主の滝」は園内四つの滝の総称となっているが、戦前期まで「名主の滝」と呼ばれた滝は、その中の「男滝」(写真)にあたる。「名主の滝」は、かつて「王子七滝」の一つとされた。「王子七滝」の初出は1910(明治43)年刊の『東京名所図会』で、「名主」「稲荷」「弁天」「不動」「権現」「見晴」「大工」が挙げられていたが、現存するのは「名主の滝」だけとなる。


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※本ページでは、現在の北区一帯を対象としている。
 特に明記していない場合、「震災」は「関東大震災」、「戦前」「戦時中」「終戦」「戦後」「戦災」の戦争は「太平洋戦争」のことを示している。



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