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「御器所・瑞穂台地」の歴史と地形


耕作地としても利用された「八幡山古墳」 MAP __

「八幡山古墳」は、5世紀中頃に築造されたといわれる直径82m、高さ10mの東海地方最大級の円墳。1919(大正8)年に「鶴舞公園」の敷地に編入され、1931(昭和6)年には国の史跡に指定されている。写真は1940(昭和15)年頃の様子で、老松が鬱蒼としていた。【画像は1940(昭和15)年頃】

「太平洋戦争」中の1942(昭和17)年、「吉田山」に高射砲陣地が設営される際、「八幡山」の松などの樹木は射撃の障害となるため伐採。終戦後、一面は耕作地としても利用されたが、1949(昭和24)年に復元された。写真は1952(昭和27)年頃の撮影で、植林されている様子が見られる。【画像は1952(昭和27)年頃】

現在は緑化も進み、1982(昭和57)年から緑地保全地区(現・特別緑地保全地区)に指定。桜の名所としても知られている。

御器所の沢庵漬 MAP __(東畑町)

江戸時代、尾張は大根が名物で、御器所では「御器所大根」(「東畠大根」とも呼ばれ、現在の昭和区東畑町あたりが発祥地といわれる)が栽培されていた。御器所の沢庵漬は、江戸初期、造り酒屋の大きな酒樽で漬けられたことに始まり、江戸末期には商い用も作られるように。江戸参勤の土産にも用いられたことなどで次第に有名になり、『尾張名所図会』にも描かれるほどの名物となった。【図は江戸末期】

明治期になると、御器所での大根栽培は衰退するが、近隣に大根産地が形成され、御器所の漬物業者に大根を供給するようになり、大正期にかけては全国でも有数の沢庵漬の生産地となった。最盛期には御器所一帯で年間100万本以上を各地へ出荷したといわれるが、大正末期頃から衰退した。写真は沢庵漬を作っている様子。【画像は1910(明治43)年頃】

「御器所台地」「瑞穂台地」周辺の地形

昭和区・瑞穂区の西部の「新堀川」沿いには「精進川低地」が、その少し東に「御器所台地」「瑞穂台地」が拡がっている。

この地域は明治後期の「精進川」の改修と大正期~昭和初期の耕地整理・土地区画整理で都市基盤が整備され、主に「新堀川」沿いは工業地として、台地上は住宅地・文教エリアとして発展した。

台地上には遺跡や貝塚、古墳、中世の城跡なども見られる。「御器所」という地名は「熱田神宮」が祭礼に使用する土器を製作していたことが由来ともいわれる。【図はカシミール3D(http://www.kashmir3d.com/)で作成】

戦前の梅の名所「大喜梅林」 MAP __

1892(明治25)年、呼続村(現・南区呼続)で農商を営み、俳人でもあった老人が60歳で隠居し、「瑞穂台地」の西南端の大喜(だいぎ)の地に千本以上の梅を植え梅園を開いた。「晴雪園」と名付け庵を結び、春には雅客を迎え楽しんでいた。写真は明治末期頃の賑わう様子。名古屋の観光地として知られるようになり、大正期~昭和戦前期には観光名所として「大喜梅林」と記載された地図も発行されている。【画像は明治末期頃】

1908(明治41)年、園主が76歳の時に建てた碑には『年毎に さかへて楽し 梅の園』と詠まれていた。梅林内には、「東郊耕地整理組合」設立当初(1912(大正元)年)の事務所も置かれた(翌々年に「鶴舞公園」付近へ移転)。のちに中国近代文学の代表的な作家となる郁達夫(いくたっぷ)氏は、日本留学中の1915(大正4)年、19歳の時「第八高等学校」に入学、同年冬から翌春まで「晴雪園」に暮らし、その様子を作品に残している。【画像は明治末期】

1939(昭和14)年に土木工事が行われた際、「欠上(かけがみ)貝塚」と「大喜梅林遺跡」が発掘され、その後「日本車輛」の社宅などになった。この土木工事や遺跡の発掘により、台地は元の高さより数m削られたという。現在は「大喜公園」、老人福祉施設、市営住宅などがある。


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※本ページでは名古屋市の大正期以降の新市街のうち、桜山・御器所周辺、現在の名古屋市瑞穂区西部、昭和区西部一帯を対象地域としている。



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