「八幡山古墳」は、5世紀中頃に築造されたといわれる直径82m、高さ10mの東海地方最大級の円墳。1919(大正8)年に「鶴舞公園」の敷地に編入され、1931(昭和6)年には国の史跡に指定されている。写真は1940(昭和15)年頃の様子で、老松が鬱蒼としていた。
名古屋市は1921(大正10)年に愛知郡呼続(よびつぎ)町、御器所(ごきそ)村などを合併、市域面積は当時国内最大の約150㎢となり、人口は約62万人で東京・大阪に次ぎ3位となる大都市となった。この新市域のうち、名古屋城下町の南東部、「山崎川」と「新堀川」の間に位置する「御器所台地」「瑞穂台地」を含む一帯では早い時期から耕地整理・土地区画整理が行われ、広大な住宅地が誕生したほか、多くの学校が移転または新設され、現在まで続く文教エリアが形成された。「精進川」の改修は、治水のほか運河として両岸の工業化を促し、さらに残土で「鶴舞(つるま)公園」も造成され、文化・スポーツ施設もある市民の憩いの場が誕生した。本ページでは現在の名古屋市瑞穂区西部、昭和区西部の明治後期から昭和戦前期を中心に街の変遷を紹介する。