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明治期までの三軒茶屋・二子玉川


「大山道」の茶屋

江戸時代、「大山道」は「大山詣」で行き交う人々で賑わった。三軒茶屋の地名は「角屋」「信楽」「田中屋」という3軒の茶屋が「大山道」沿いにあったことに由来する。図は江戸末期に描かれた前北斎為一(ぜんほくさいいいつ)による「大山詣・江ノ島詣」の道中を題材とした『鎌倉江ノ嶋大山新板往來雙六(すごろく)』の一部。前北斎為一は、葛飾北斎が60~70歳頃に使用していた画号で、『鎌倉江ノ嶋大山新板往來雙六』は北斎が生涯で唯一描いたすごろく。【図は江戸末期】

「大山道」の本道(現「世田谷通り」)と新道(現「玉川通り」)の分岐点となる「信楽」(のちの「石橋屋」「石橋楼」)があった場所は、現在はカラオケ店となっており、その前の駅入口の脇には「大山道」の道標が保存されている。「田中屋」は当時とほぼ同じ場所で「田中屋陶苑」として営業を続けている。 MAP __(大山道の道標) MAP __(田中屋陶苑)

「二子の渡し」と「二子橋」」 MAP __(二子の渡し跡)

「多摩川」の「二子の渡し」は、「大山道」の一部、瀬田(現在の「二子玉川駅」付近)・二子(現在の「二子新地駅」付近)間を結ぶ渡し船で、渡し場の周りは、茶屋、宿屋などで賑わっていた。写真は明治後期から大正前期の撮影。陸軍から働きかけがあり、さらに1923(大正12)年に発生した「関東大震災」復興のため、「二子橋」の架設が決まり、1925(大正14)年に完成、渡しは廃止された。「玉電」は「二子橋」の建設費の3割弱を出資し、利用権を得て橋の中央に単線の軌道を敷設、1927(昭和2)年に玉川(現・二子玉川)・溝ノ口(現・溝の口)間に溝ノ口線を開業した。【画像は明治後期~大正前期】

「二子橋」上の軌道は戦時中の1943(昭和18)年、輸送力増強のため改軌されて東急大井町線(1963(昭和38)年に東急田園都市線に改称)が乗り入れるようになった。写真は1964(昭和39)年撮影の「二子橋」を渡る田園都市線。1966(昭和41)年、田園都市線の溝の口から長津田までの延伸開業と同時に「二子橋」の下流側(写真では左側)に鉄道専用橋が開通した。 MAP __(二子橋)【画像は1964(昭和39)年】

現在の「二子橋」。1977(昭和52)年の改修で歩道が追加された。「二子橋」の上流側には「国道246号」のバイパスの一部となる「新二子橋」が建設され、1978(昭和53)年に供用された。

開通当初の頃の「玉電」

1907(明治40)年、「玉電」が渋谷・玉川(現・二子玉川)間で開通。ルートの大半が「大山道」上を通る路面電車で、当初は「多摩川」の砂利輸送を目的の1つとしていた。写真は明治後期から大正前期撮影の三軒茶屋付近を行く「玉電」で、砂利を運ぶ貨車が連結されており、「ジャリ電」とも呼ばれた。「玉電」による砂利輸送は1935(昭和10)年前後まで行われた。【画像は明治後期~大正前期】

写真は明治後期から大正前期の「行善寺」前の坂を上る「玉電」。「行善寺」の境内から「多摩川」方面を撮影している。奥の電車が止まっているところが「玉川停留場」で、周辺には田んぼが広がっていた。「行善寺」の境内からの「多摩川」の眺望は絶景で、江戸後期には徳川将軍も訪れたほか、「行善寺八景」として書物にも著されている。【画像は明治後期~大正前期】

写真は現在の「行善寺」前の付近の東急田園都市線。この路線は新玉川線として、「玉電」とほぼ同じルートの地下に建設された。撮影地点の手前付近から地下区間となる。 MAP __(行善寺前)


明治後期から置かれた陸軍施設

「近衛野砲兵聯隊」の訓練の様子

1935(昭和10)年撮影の「近衛野砲兵聯隊」の訓練の様子。
【画像は1935(昭和10)年】

東京の軍事施設は、明治20年代になると広大な敷地を求め郊外に移転するようになった。1897(明治30)年、現在の世田谷区池尻一・二丁目から目黒区東山にかけての一帯に陸軍の「駒沢練兵場」が設置され、練兵場の西側周辺(現・下馬二丁目・太子堂一丁目)には、1898(明治31)年に「近衛野戦砲兵聯隊」(のちの「近衛野砲兵聯隊」)と「野戦砲兵第一聯隊」(のちの「野砲兵第一聯隊」)が移転してきた。

都立公園時代の「世田谷公園」

写真は都立公園時代の「世田谷公園」。
【画像は1961(昭和36)年】

兵営の周辺では、軍人や、入営・出営の送り迎えをする家族を相手に商業・旅館業などが発達した。「大山道」上に明治後期に開業した「玉電」は軍人にも利用され、「軍人優待乗車券」も発行された。

現在の「世田谷公園」

現在の「世田谷公園」。1959(昭和34)年に都立公園として開園、1965(昭和40)年に区に移管され再整備が行われ、1974(昭和49)年にリニューアルし開園となった。

戦後、陸軍施設の跡地は学校や公園などとなった。練兵場跡は「世田谷公園」「世田谷区立池尻小学校」、「野砲兵第一聯隊」跡は都営住宅、「近衛野砲兵聯隊」跡は「世田谷区立三宿中学校」「昭和女子大学」などになっている。 MAP __(世田谷公園)


「近衛野砲兵聯隊」と「野砲兵第一聯隊」

1897(明治30)年に「駒沢練兵場」が設置され、翌年、「近衛野戦砲兵聯隊」が西側の隣接地へ「竹橋陣営」より移転、1907(明治40)年に「近衛野砲兵聯隊」へ改称された。写真は明治後期~大正前期の「近衛野砲兵聯隊」の営門。現在、「近衛野砲兵聯隊」跡地は「世田谷区立三宿中学校」「昭和女子大学」などになっている。 MAP __【画像は明治後期~大正前期】

「近衛野戦砲兵聯隊」の移転と同年、敷地の南側には「野戦砲兵第一聯隊」が移転してきた。翌年に千葉・国府台へ転営、跡地には「野戦砲兵第十三聯隊・第十四聯隊・第十五聯隊」が新設された。各聯隊は1907(明治40)年に「野砲兵」へ改称。翌1908(明治41)年に国府台の「野砲兵第一聯隊」と「野砲兵第十五聯隊」が入れ替わる形で転営、「野砲兵第一聯隊」は元の地に戻った。写真は明治後期~大正前期の「野砲兵第一聯隊」の営門。「野戦砲兵第十三聯隊・第十四聯隊」は、1922(大正11)年に軍備整理により廃止、跡地には新たに「野戦重砲兵第八聯隊」が設けられた。現在、「野砲兵第一聯隊」及び「野戦重砲兵第八聯隊」の跡地は都営住宅などになっている。 MAP __【画像は明治後期~大正前期】


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※本ページでは「東京急行電鉄」を「東急電鉄」または「東急」と略記している。
※「二子玉川」という地名の由来は、世田谷区になる前の村名の「玉川村」と対岸の「二子村」を組み合わせたものといわれ、1929(昭和4)年に「目黒蒲田電鉄」(現「東急電鉄」)が「二子玉川駅」を開業して以降、一般化したものと思われるが、本ページでは便宜上、それ以前の地名についても「二子玉川」と表現している場合がある。



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