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水の都・深川


『塩の道』として開削された「小名木川」

現在の江東区を東西に一直線に貫く運河「小名木川」。東の「旧中川」と西の「隅田川」を結ぶ(河川名は現在の名称)。中世までは、現在の江東区域はほとんどが海か干潟であった。1590(天正18)年、徳川家康が江戸へ入府すると、行徳(現・千葉県市川市)の塩を「江戸城」に運ぶため、江戸の最初期の開発として、この干潟を開削、運河を建設した。行徳も江戸も「江戸(東京)湾」に面しているが、広大な浅瀬が拡がり、安全に舟運を行うためには大きく迂回する必要があった。川名については、1693(元禄6)年刊の地図まで「うなぎさわ堀」との記載が見られるが、1716(享保元)年刊の地図には「オナキ川」とあり、この頃に「うなぎ」が「おなぎ」に転じたと考えられている(開削者の名字に因むという説もある)。図は1865(慶応元)年に発行された『江戸大繪圖』の「小名木川」部分。【図は1865(慶応元)年発行】

深川村の誕生と「深川神明宮」 MAP __

慶長年間(1596年~1615年)、摂津国(大阪)から来た深川八郎右衛門が、家康の命により「小名木川」の北岸、現在の森下周辺で干拓(新田開発)を行い、「小名木川」は排水路としての役割も果たした。村名は名字から採って深川村とするよう、家康が命じたといわれる。その後江戸中期まで、深川氏は深川村の名主を務めた。「深川神明宮」は、深川八郎右衛門が干拓を行っていた頃に「伊勢神宮」より分霊を勧請し創建した神社で、「深川総鎮守神明宮」と称され崇敬された。図は江戸後期、『江戸名所図会』に描かれた「深川神明宮」。【図は江戸後期】

明治に入り、「深川神明宮」の社号は「深川天祖神社」へ改められた。1881(明治14)年に火災で焼失、1901(明治34)年に再建された。1923(大正12)年の「関東大震災」、1945(昭和20)年の「東京大空襲」で深川一帯は焼失するも、「深川天祖神社」の本殿は奇跡的に焼失を免れた。写真は震災直後の「深川天祖神社」。【画像は1923(大正12)年】

1947(昭和22)年、社号を「深川神明宮」に復し、現在に至る。社殿は1968(昭和43)年に建て替えられている。

北関東・東北を結ぶ舟運網の基点となった「小名木川」

江戸期から明治期にかけて、「小名木川」は「船堀川(新川)」「江戸川」を通り「利根川」水系へ、さらに1654(承応3)年の「利根川東遷」以降は「太平洋」へとつながり、江戸(東京)と北関東・東北を結ぶ舟運網の基点となる重要な運河となった。江戸初期頃までには、「深川番所」(船の関所で、江戸に出入りする荷物や人物を改めた)が「小名木川」の「隅田川口」となる、現在の「萬年橋」の北側に置かれたが、「明暦の大火」(1657(明暦3)年)以降の江戸の街の拡大もあり、1661(寛文元)年に「中川口」に移され「中川番所」となった。図は歌川広重が1857(安政4)年頃に描いた『名所江戸百景 中川口』。手前が「小名木川」、奥が「船堀川(新川)」、左右に「中川」が流れる、運河と川が交差する場所で、左手前に「中川番所」の柵が描かれている。
MAP __【図は1857(安政4)年頃】

1869(明治2)年、全国の関所が廃止されたことに伴い、「中川番所」も廃止された。写真は1910(明治43)年頃の番所跡の様子。【画像は1910(明治43)年頃】

写真は現在の「小名木川」の「中川口」付近。この先に「荒川放水路」(現「荒川」)が建設されたことに伴い、「中川」は分断され、「旧中川」と呼ばれるようになった。「中川番所」があった場所は現在の江東区大島九丁目1番(写真左手付近)で、2003(平成15)年に開館した「中川船番所資料館」は、この番所跡地より100mほど北側(写真右側)にある。
MAP __(中川船番所資料館)

「小名木川」を行き交う船

「小名木川」には江戸の物流を支えた船のほか、旅客用の船も運行された。行徳から日本橋まで塩を運んでいた「行徳船(ぎょうとくぶね)」は、次第に人や物資も輸送するように。江戸後期に「成田詣」が盛んになると、多くの参拝客も運ぶようになり(行徳からは陸路で「成田山」へ向かった)、江戸末期の嘉永年間(1848年~1854年)には60隻以上の船が就航していた。図は1867(慶応3)年頃に二代歌川広重が描いた『小奈木川五本松』。「小名木川」を行く舟が描かれている。手前の松は「綾部藩九鬼家下屋敷」の庭から伸びていたもので、名所として知られていた。この頃には1本に減っていたが「五本松」と呼ばれ続けていた。左に見える町家は「深川扇橋町」、右の手前の橋は「新高橋」、その奥が「高橋」。
MAP __(綾部藩九鬼家下屋敷跡地)【図は1867(慶応3)年頃】

江戸期の「小名木川」には、「新高橋」「高橋」のほか、「隅田川」そばに「萬年橋」と、三つの橋が架けられていた。下屋敷があった場所は、明治中期頃に工場となった。「五本松」は工場の煤煙で傷んで枯死し、1909(明治42)年に切り倒された。現在、下屋敷の跡地は「東京都立墨東特別支援学校」(写真右側)になっている。

明治期以降も「小名木川」とそれにつながる運河・河川は旅客や貨物の往来に重要であった。明治初期には「小名木川」を経由し「利根川」水系に入り群馬・茨城など関東内陸部へ向かう、蒸気船の定期貨客船が運行されるようになったほか、江戸期の「行徳船」のルートも「行徳航路」として運行された。しかし、明治後期頃から鉄道網が発達すると、長距離の航路は徐々に衰退。「行徳航路」も1944(昭和19)年に廃止された。写真は「小名木川」沿いの「扇橋」付近で撮影された「通運丸」。東日本で大きな被害があった「明治43年の大洪水」の時の撮影で、道が冠水している。「通運丸」は、「内国通運会社」(現「日本通運」の前身)が1877(明治10)年から1919(大正8)年まで運行した定期貨客蒸気船で、その後は別会社に引き継がれた。【画像は1910(明治43)年】

当初の「通運丸」は「扇橋」が始発点であったが、のちに「日本橋」と「高橋」付近に移された。写真左右の運河が「小名木川」、手前から奥にかけての運河が「大横川」。かつての「扇橋」は「小名木川」のすぐそば、川に沿って架けられていたが、震災復興時に100mほど南(写真では奥)に架け替えられている。
MAP __(かつての扇橋) MAP __(現在の扇橋)

松尾芭蕉が暮らした深川

俳人・松尾桃青は江戸前期の1680(延宝8)年、37歳の時に日本橋から、当時はまだ自然豊かであった深川の「小名木川」河口付近に草庵を設け移り住んだ。ここで弟子から芭蕉の株を貰い受けたことにちなみ、新たな俳号・芭蕉を名乗るようになり、草庵は「芭蕉庵」と呼ばれるようになった。最初の「芭蕉庵」は、翌々年の江戸の大火で焼失。弟子の寄付から、1683(天和3)年に再興された。この二代目「芭蕉庵」は、1689(元禄2)年、『おくのほそ道』の旅に備えて売却、近くにあった弟子の別荘「採荼(さいと)庵」に身を寄せ、ここから出発した。旅から戻ったのちの1692(元禄5)年、二代目の隣地に三代目「芭蕉庵」を設け、1694(元禄7)年に亡くなるまでここに暮らした。その後、この地は「尼崎藩松平家下屋敷」となり、「芭蕉庵」は敷地内に保存されていたが、幕末から明治にかけて失われた。図は江戸後期、『江戸名所図会』に描かれた「芭蕉庵」。【図は江戸後期】

「芭蕉庵」があった場所は、現在の「芭蕉稲荷神社」(1917(大正6)年建立)付近といわれ、周辺には1981(昭和56)年に「芭蕉記念館」、1995(平成7)年には「小名木川」の河口、「隅田川」に隣接する地に「芭蕉記念館分館」が開館、「芭蕉庵史跡展望庭園」が開園している。写真は「芭蕉庵史跡展望庭園」に設置されている「芭蕉翁像」。昼間は「隅田川」の川上方面を向いているが、毎日17時になると、45°左方向へ回転して河口方面を向き、ライトアップされる。
MAP __(芭蕉稲荷神社) MAP __(芭蕉記念館) MAP __(芭蕉庵史跡展望庭園)

「永代橋」の歴史

「永代橋」は1698(元禄11)年、現在の位置より100mほど上流側に架橋された。江戸期に「隅田川」に架橋された5橋のうち4番目の完成で、橋名は深川の「永代島」(現・江東区富岡付近)に因む。1807(文化4)年には「富岡八幡宮」の「八幡祭」に押し寄せた群衆の重みで崩落、1,400人以上の死傷者・行方不明者を出した。図は江戸末期、歌川広重が描いた『東都名所永代橋全図』。左上が深川となる。
MAP __(当初の場所)【図は江戸末期】

1897(明治30)年、道路橋としては日本初の鉄橋として、現在の場所に架け直され、1904(明治37)年には東京市街鉄道(のちの都電)の路面電車も敷設された。
MAP __【画像は明治後期】

「永代橋」は1923(大正12)年の「関東大震災」で被災、「帝都復興事業」で再架橋され、1926(大正15)年に竣工した。右奥側が深川となる。中央奥に見える高い2本の煙突の場所が「浅野セメント 東京工場」【画像は昭和初期】

写真は現在の「永代橋」。2007(平成19)年に国の重要文化財に指定された。「永代橋」を通っていた都電は1972(昭和47)年に廃止されている。


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※本ページでは、現在の江東区域(湾岸部を除く)を対象としている。
 特に明記していない場合、「戦前」「戦時中」「終戦」「戦後」「戦災」の戦争は「太平洋戦争」のことを示している。



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