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江戸の拡大と両国の発展


「回向院」の建立 MAP __

「回向院」は、「明暦の大火」が発生した1657(明暦3)年、四代将軍・徳川家綱の命により、犠牲者となった多くの無縁仏を供養するために、「隅田川」東岸の地に建立された。1768(明和5)年以降、境内で勧進相撲が興行されるようになり、1833(天保4)年からは春秋二回、興行される定場所(「回向院相撲」と呼ばれる)となり、これが現在の大相撲へ発展した。図は歌川広重が1842(天保13)年に描いた『東都名所 両国回向院境内全図』で、左の建物が「回向院」の本堂で、右のよしず張りの巨大な建物が相撲小屋。【図は1842(天保13)年】

写真は明治後期の「回向院」。左隣の建物は「国技館」。【画像は明治後期】

写真右下が現在の「回向院」の山門。左の建物が「国技館」跡地に建てられた「両国シティコア」。

「両国橋」の変遷

江戸初期、幕府は防備のため「隅田川」への架橋は「千住大橋」以外認めなかったが、1657(明暦3)年の「明暦の大火」では、橋が無かったため、多くの江戸町民が逃げ場を失い、10万人ともいわれる死傷者を出した。このため、防災のために「大橋」が1659(万治2)年(1661(寛文元)年の説もあり)に架橋された。1686(貞享3)年に国境が変更されるまでは、武蔵国と下総国の両国に架かる橋であったことから、一般には「両国橋」と呼ばれた。当時の橋は木造であり、類焼を防ぐため、東西の橋のたもとには、それぞれ火除地として広小路が作られた。この「両国広小路」は、建物がない広場であったため、飲食店の屋台や露天商、仮設の見世物や芝居の小屋などが建ち並ぶようになり、江戸で有数の盛り場として賑わうようになった。現在の両国と呼ばれる地域は、東詰側の「両国広小路」で、「向こう両国」とも呼ばれた。図は1781(天明元)年頃に描かれた『隅田川両岸一覧図絵 上』の一部で、「両国橋」の先に東詰側の「両国広小路」と「回向院」(図内では「影向院」と表記)が描かれている。MAP __(江戸期の場所)【図は1781(天明元)年頃】

江戸期の「両国橋」は流出や焼失などにより、何度も架け替えられた。明治期に入り、西洋風の木橋へ架け替えられ、1875(明治8)年に完成した。この橋は、1897(明治30)年の花火大会の際、見物客の重みで欄干が破損し、多くの死傷者を出した。写真は明治中期の「両国橋」。手前の船は定期貨客船「通運丸」で、「両国橋」西詰に発着所があった。「通運丸」は「隅田川」「小名木川」を経由し、「江戸川」「利根川」方面などへ運行されていた。【画像は明治中期】

「両国橋」は鉄橋への架け替えが行われ、1904(明治37)年に開通した。この架け替えで、江戸期・明治初期の「両国橋」より50mほど上流へ移された。この翌年には橋上に路面電車(のちの市電・都電)が開通している。写真は明治後期~大正前期の「両国橋」。 MAP __【画像は明治後期~大正前期】

「関東大震災」後の「帝都復興土地区画整理」の中で、現・中央区新川二丁目と湊一丁目の間の「亀島川」に、「南高橋」が「東京市」により架橋された。その際、明治期の「両国橋」の中央部分が移設・再利用され、1931(昭和6)年に着工、翌年に竣工となった。現在、都内に残る鋼鉄トラス橋の道路橋としては最古の橋となる。 MAP __

1904(明治37)年に開通した「両国橋」は、「関東大震災」では大きな損傷は受けなかったため、震災直後の周辺の応急・復旧作業に大きく貢献したという。震災直後の復興計画では架け替えの予定はなかったが、1925(大正14)年頃に他の震災復興橋梁の建設に合わせて、「東京市」により架け替えられることとなった。このような経緯から、「両国橋」は架け替えを急ぐ必要がなかったため、「隅田川」の震災復興橋梁の9橋の中では最も遅い時期となる1930(昭和5)年の着工、1932(昭和7)年の竣工となった。【画像は昭和戦前期】

写真は現在の「両国橋」。西詰(中央区)側から東詰(墨田区)側を望んでいる。

両国の「川開き」と花火

「隅田川」の「両国橋」周辺では、毎年5月28日から8月28日(旧暦)までの間、「夕涼」の期間とされ、夜間の料理屋の営業や川遊びが許された。この「夕涼」は江戸前期の延宝年間(1673~1681年)の頃より盛んになったという。「夕涼」の初日は「川開き」と呼ばれ、1733(享保18)年の「川開き」からは、毎年大花火(「両国の花火」、現「隅田川花火大会」の前身)が打ち上げられるようになった。図は五雲亭貞秀が1859(安政6)年に描いた『東都両国ばし夏景色』。奥が現在の両国方面で、橋の先に「回向院」がある。「両国橋」上の密集した人々と「隅田川」に描かれた多数の舟が当時の賑わいを伝えている。【図は1859(安政6)年】

広大な武家地が形成された本所

「明暦の大火」後、開発された本所一帯は、防災を考慮した都市計画から道路や運河が縦横に設けられ、現在まで引き継がれている碁盤目状の区画が誕生した。さらに、五代将軍・徳川綱吉の時代には、軍事的な理由から武家地を中心とする街として再整備された。幕府直属の家臣である旗本・御家人の屋敷が多かったが、「弘前藩津軽家上屋敷」といった大名屋敷や、上級旗本の屋敷も置かれた。また、「竪川」などの運河沿いを中心に職人や商人が暮らす町人地も形成された。

図は江戸末期の1852(嘉永5)年に描かれた『本所絵図』の一部、現在の両国付近。白い部分が武家地、灰色に着色されている部分が町家(町人地)で、図からもわかるように、本所には小さい(といっても100~200坪程度で、現代の住宅の感覚からすれば大きい)武士の屋敷が多かった。後述の「吉良邸」があった場所は、この時代には「本多内蔵助家」の屋敷などになっている。 【図は1852(嘉永5)年】

本所には武家屋敷が多かったが、大名家の上屋敷は『本所絵図』の描かれた江戸末期でも3つしかなかった。写真は「弘前藩津軽家上屋敷」跡となる「緑町公園」。江戸前期、弘前藩津軽家は、神田に上屋敷を構えていたが、三代藩主・津軽信政の時代の1687(貞享4)年、那須家に養子として出していた三男・資徳が絡む那須家のお家騒動があり、翌年、連座して当時はまだ郊外であった本所への移転が命じられた。 MAP __

「赤穂事件」で討ち入られた本所の「吉良邸」

江戸初期から高家(幕府の朝廷・公家に対する儀式などを司る職)を務めた東条吉良氏。高家三代目となる吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、1701(元禄14)年3月、「江戸城」の「松之大廊下」で、赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)に斬りつけられた。長矩は即日切腹を命じられ、同月、義央は高家を辞し、8月には本所への屋敷替えが命じられた。翌1702(元禄15)年12月、本所の「吉良邸」で茶会があることを知った「赤穂義士」が討ち入り(のちに「赤穂事件」と呼ばれる)を決行し、義央は首を討たれた。江戸中期以降、「赤穂事件」を題材とする『忠臣蔵』が人形浄瑠璃や歌舞伎などで人気になった。図は1806(文化3)年頃、葛飾北斎が描いた『仮名手本忠臣蔵』の「吉良邸」への討ち入りの場面。【画像は1806(文化3)年頃】

1934(昭和9)年、「吉良邸」跡地の一部を、地元町内会の有志らが購入し東京市へ寄贈。東京市は、なまこ壁長屋門を模したコンクリート壁を設置、内側壁面には説明板を配するなど、史跡公園として整備し、翌年、「本所松坂町公園」として開園した。写真は1943(昭和18)年頃の「本所松坂町公園」。 MAP __【画像は1943(昭和18)年頃】

写真は現在の「本所松坂町公園」。戦後の1950(昭和25)年に墨田区へ移管されており、現在は、園内に石碑や「吉良上野介義央公座像」などがある。


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※本ページでは、現在の墨田区を対象としている。
 特に明記していない場合、「震災」は「関東大震災」、「戦前」「戦時中」「終戦」「戦後」「戦災」の戦争は「太平洋戦争」のことを示している。



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