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水陸交通の要衝「枚方宿」


奈良時代創建の「百済寺」 MAP __

1970年代前半撮影の「百済寺跡公園」の航空写真

8世紀後半、「交野台地」の西部に百済王(くだらのこにきし)氏により「百済寺」が建立された。この一族は、朝鮮半島の百済の王族の末裔で、奈良時代後半から平安時代の初めにかけて中央政界で活躍。8世紀の半ばに百済王敬福(きょうふく)が河内守となり交野に移り住んだといわれる。写真は1970年代前半の「百済寺跡公園」の空撮。【画像は1970年代前半】

1968(昭和43)年の「百済寺跡公園」

「百済寺跡」は1952(昭和27)年に国の特別史跡となり、1968(昭和43)年に「百済寺跡公園」として整備された。【画像は1968(昭和43)年】

「百済寺跡公園」では2015(平成27)年度より再整備が進められている。写真中央は「東塔」の基壇。

「天の磐船」を御神体とする「磐船神社」MAP __

現在の交野市にある「磐船神社」は、高さ約12mの舟形巨石「天の磐船(あめのいわふね)」を御神体としている。御祭神は物部氏の祖神といわれる「饒速日命(にぎはやひのみこと)」。「天照大神」から十種類の神宝を授かり降り立ったといわれ、そのときの乗り物が「天の磐船」とされる。

写真は「天の岩戸」とされる磐座(いわくら)。「磐船神社」の岩窟は古来より修行の場で、現在は一般の参拝者も「岩窟めぐり」を体験できる。【画像は昭和戦前期】

写真は「磐船神社」の拝殿と御神体「天の磐船」。

「淀川」を行き来した「三十石船」と「くらわんか舟」

江戸時代、街道とともに「淀川」を行き来する「三十石船」が交通を担っていた。この船に小舟で近づいて飲食物を売っていたのが「くらわんか舟」。名前の由来は「飯くらわんかい、酒のまんかい」という方言で売っていたことによる。「くらわんか舟」は器の数で料金を計算しており、支払をごまかす客が投げ捨てたとみられる器「くらわんか碗」(写真左上)が、川底から発見されている。【画像は明治後期】

水陸交通の要衝であった「京街道」の「枚方宿」MAP __

大阪と京都の中間にあたる枚方には、「京街道」の宿場の一つ「枚方宿」が置かれた。「枚方宿」は、大阪側から泥町・三矢・岡・岡新町の四つの村で構成され、街道に沿って東西に細長く続いていた。写真は「三十石船」の「船待ち宿」であった老舗の料理旅館「鍵屋」。 【画像は大正期】

「鍵屋」は、1997(平成9)年まで営業を続けたのち、現在は「市立枚方宿鍵屋資料館」となり「枚方宿」の歴史を紹介している。


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MAP

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※本ページでは、大阪府枚方市、交野市を中心に取り上げている。



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