中国地方の有力武将である毛利元就は、現在の広島県北部の「吉田郡山城」を本拠地としていたが、孫の輝元の代になると、港湾部の重要性から「瀬戸内海」に近い場所に新しい拠点を求めた。1589(天正17)年「太田川デルタ(三角州)」の五箇村に築城を開始、これが現在の「広島城」となり、城下町の形成も始まった。その後「関ケ原合戦」に敗れた毛利氏は転封(国替え)となり、1600(慶長5)年、福島正則が広島に入城する。だが無断で「広島城」の普請を行ったことが、徳川秀忠の怒りを買い福島正則は改易、浅野長晟(ながあきら)を迎えることとなる。
「太田川デルタ」の上に発達した広島は、戦国武将の毛利輝元が「広島城」を築いたことに始まる。その後の城主である福島正則、広島藩藩主の浅野家は「西国街道」の整備や川の治水、干拓を進め、広島の街は拡大した。「明治維新」後は、陸軍の「第五師団」が置かれ、「宇品港」の開港、山陽鉄道の「広島駅」の開業を経て、「日清戦争」時には軍を指揮する「大本営」も東京から移された。また「鎮守府」が置かれた呉も『海軍のまち』として大いに発展した。しかし、「軍都」であった広島は「太平洋戦争」では原爆投下の目標となり、壊滅的な被害を受け、多くの人命が失われた。『75年は草木も生えぬ』と言われたが、驚異的な早さで力強く復興を遂げ、現在では恒久の平和を願う「平和記念都市」としても知られている。