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西新の歴史と地名


江戸前期のニュータウン「新西町」

1601(慶長6)年の「福岡城」築城開始以降、福岡は城下町として発展。城の西側の「地行(じぎょう)」「西町」(現・中央区地行・今川)には、家臣団の増加により「足軽屋敷」、また、藩の政策により寺社が置かれ、外郭の役割も果たした。1694(元禄7)年から、「西町」より「樋井川」を渡ったさらに西の地の「百道松原」の一部を伐り払い、武士の宅地である「新屋敷」が作られた。この絵図をはじめ、江戸前期・中期の絵図には「新西町」とあるが、江戸後期の絵図には「西新町」と文字が入れ替わった記載が見られ、現在の「西新」の地名の由来となっている。【絵図は1699(元禄12)年】

「新屋敷」には鉄砲の火縄の材料にもなる「ちん竹」の生け垣「ちんちく塀」が作られ、ここに暮らす武士たちは「ちんちく殿(どん)」と呼ばれた。近年まで西新にも「ちんちく塀」が残っていた。写真は早良区室見四丁目に残る「ちんちく塀」。 MAP 1

「百道松原」と海水浴場

現在の西新一帯は古くは「百道原(ももじばる)」「紅葉(もみじ)原」と呼ばれ、江戸初期の1618(元和4)年、藩命により「博多湾岸」の砂浜に松が植林され「百道松原」「紅葉松原」と呼ばれるようになった。百道の地名の由来は、昔この地域が干潟であった頃、往来する人々の足跡が縦横無尽に交差する様から「百の道」となったといわれる。写真は1918(大正7)年に「福岡日日新聞社」(現「西日本新聞社」)により開設された「百道海水浴場」。交通の便が良く、昭和30年代頃までは大勢の海水浴客で賑わったが、水質の悪化から1975(昭和50)年に閉鎖となった。【画像は大正~昭和戦前期】

写真は「百道浜橋」の西詰にある「百道海水浴場跡」碑。 MAP 2

写真は「福岡市立百道小学校」。現在も校庭に「百道松原」の松が残されており、かつての面影を伝えている。 MAP 3

「百道海岸」の埋立ては、1982(昭和57)年に開始、1986(昭和61)年に完了した。写真は埋立てが始まる直前、1981(昭和56)年の様子。左奥に見える建物群は、昭和40年代に埋立てられた地に建設された「福浜団地」。 MAP 4 【画像は1981(昭和56)年】

写真は現在の「西南学院中学校・高等学校」前で、かつての海岸線は概ね「よかトピア通り」となっている。

写真は「シーサイドももち海浜公園」。人工ビーチが設けられており、水遊びなどが楽しめる。右に見える緑地帯は「夢松原」。1987(昭和62)年から市民参加による植樹が続けられ、現在では見事な松原となり、砂浜と共にかつての景観が再現された。 MAP 5

「百道松原」にあった「紅葉八幡宮」 MAP 6

室町時代、早良郡橋本村(現・西区橋本)に建立された小さな社が前身。江戸時代の1666(寛文6)年、福岡藩三代藩主の黒田光之が「百道松原(紅葉松原)」に遷宮し「紅葉八幡宮」となり、西新はこの神社を中心とする門前町として発展した。1910(明治43)年に博多電気軌道北筑線が境内を横切るようになり静粛さが失われたため、1913(大正2)年に「三瀬街道」沿いの、街が一望できる現在地に遷宮した。写真は遷宮の直前の撮影で、松に囲まれている様子がわかる。左端の女性の後ろに北筑線の軌道が見える。会社名には「電気」とあるが、今川橋・姪ノ浜間が電化されるのは1922(大正11)年なので、まだ架線は見られない。【画像は1913(大正2)年】

現在地へ遷宮する前は、現「西新パレス」一帯(写真)が境内であった。北筑線を引き継ぎ、1975(昭和50)年まで西鉄福岡市内線貫線が通っていた手前の道路は、現在は「明治通り」と呼ばれている。

現在地へ遷宮後の1915(大正4)年、「一の鳥居」が「唐津街道」と「三瀬街道」分岐点に建立された。 MAP 7 【画像は1915(大正4)年】

1926(大正15)年には、この鳥居より70mほど北、現在の「明治通り」沿いに新たな「一の鳥居」も建立された(左写真)。 MAP 8

旧「一の鳥居」は、道路拡張のために1975(昭和50)年頃に社殿裏側の道に移設、現存している(右写真)。 MAP 9

写真は1966(昭和41)年頃の社殿の様子。「300年記念事業」への奉納者が掲示されている。【画像は1966(昭和41)年頃】

社殿は1974(昭和49)年に建て替えられた。現在も初詣をはじめ多くの参拝者が訪れるほか、隣接する「紅葉山公園」と共に市民の憩いの場として親しまれている。 MAP 10


『サザエさん』発案の地

『サザエさん うちあけ話』 1979年 長谷川町子 姉妹社 (c)長谷川町子美術館

『サザエさん うちあけ話』 1979年 長谷川町子 姉妹社 (c)長谷川町子美術館

「西新通り交差点」付近に作られた「磯野広場」

「西新通り交差点」付近に作られた「磯野広場」には「サザエさん発案の地」記念碑がある。右の道路は旧海岸線である「よかトピア通り」。 MAP 11

長谷川町子氏は1920(大正9)年、佐賀県で生まれ、幼少時に福岡市に転居、1930(昭和5)年からは西新で暮らした。1933(昭和8)年に一家で上京し、当時、『のらくろ』で人気の漫画家、田河水泡氏に弟子入りし、1935(昭和10)年、学生のうちにデビューした。

戦時中の1944(昭和19)年、疎開のために福岡市西新の家に戻り、終戦後の1946(昭和21)年、「西日本新聞」から独立・創刊となった「夕刊フクニチ」から連載漫画の依頼を受けた。主人公は「おてんば娘」とすぐ決めたが、家族構成に迷っていた。そして、妹と自宅の近所である百道の海岸付近を散歩しているとき海産物由来の「サザエ」「カツオ」「ワカメ」といった登場人物が考案され、『サザエさん』が連載開始となった。しかし、同年8月、町子氏が再び上京することとなり、連載は「サザエさん」の結婚をもって一旦最終回に。

その後、「朝日新聞」朝刊に『サザエさん』が再開され全国で親しまれる存在となり、テレビアニメも1969(昭和44)年にスタート。1992(平成4)年に町子氏が逝去して以降も愛され続ける国民的作品となっている。

現在、福岡市では町子氏ゆかりの地に「サザエさん通り」「磯野広場」などの愛称を命名。碑や銅像、案内板も設置され、多くのファンが訪れるスポットとなっている。また、「西新商店街連合会」では「海平さん」(波平さんの双子の兄で福岡在住)、「サザエさん」「マスオさん」「波平さん」の着ぐるみを作成、イベントなどに登場し街を盛り上げている。



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※本ページでは現在の西新・姪浜を中心とする福岡市早良区北部及び西区一帯を対象地域としている。
 本ページでは「西日本鉄道」を「西鉄」と略記している。



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