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「世田谷城」と「豪徳寺」


吉良氏が築いた「世田谷城」 MAP 1

吉良氏は足利氏の支族で、足利長氏(おさうじ)と義継の兄弟が三河吉良荘(現・愛知県西尾市)の地を東西に分けて領したことに始まっている。のちに世田谷城主となるのは義継を祖とする東条吉良氏。南北朝時代の1345(興国6)年に吉良貞家が「奥州管領」の一人となり活躍、その後、関東に領地を得て、遅くとも1400年代中頃までには、世田谷の居館を拡張・整備し、城郭が形成されたと考えられている。

北条氏が関東に進攻してくると、姻戚関係により勢力下に入った。「世田谷城」は治家以降、八代200年以上にわたっての居城となり栄えたが、1590(天正18)年、豊臣秀吉の「小田原攻め」による北条氏滅亡とともに所領を失い廃城となった。世田谷の吉良氏は、江戸時代になると幕府の高家(こうけ・儀式典礼などを司る職で足利氏以来の名家が世襲)となり、蒔田氏を名乗った。同じく高家となった西条吉良氏を祖とする三河吉良氏は、江戸時代中期の「赤穂事件」で吉良上野介義央が討たれ断絶となり、蒔田氏が再び吉良姓を名乗るようになった。

上図は1932(昭和7)年頃の「世田谷城跡」周辺の地図で、左上に描かれた城跡の記号が「世田谷城跡」。台地上に築かれ、「烏山川」(江戸時代に用水となったため地図中の表記は「烏山用水」)が三方を囲むように流れていたことがわかる。現在の「豪徳寺」の敷地は「吉良氏館」(「世田谷城」の一部)であったと推定されている。【地図は1932(昭和7)年】

「世田谷城跡」は、戦前の1940(昭和15)年、東京市により「世田谷城阯公園」として整備され、1950(昭和25)年に区に移管されている。園内には、土塁や空堀などの遺構も見られる。

「ボロ市」の起源は戦国時代の「楽市」 MAP 2

「ボロ市」は、戦国時代の1578(天正6)年、関東を支配した小田原の北条氏によって、吉良氏の城下町「世田谷宿」に開かれた楽市が起源。当時、世田谷は江戸と小田原方面を結ぶ街道沿いの要衝であった。毎月6回、1と6のつく日に「六斎市」が開かれ、市場税が免除され、商人が自由に交易できる場として発展。その後、北条氏の滅亡により「世田谷城」は廃城、江戸時代に入ると「東海道」と「甲州街道」が主要な街道となり、「世田谷宿」は寂れることとなるが、市の伝統は受け継がれ、年1回、年末に開かれる歳の市として、近郷の農民のために農耕具、古着、正月用品などが売られるようになった。【画像は大正期】

明治時代の改暦以降は1月にも市が開かれるようになり、年末と年始の年2回の開催となった。「日清戦争」以降、着物やわらじの補修に使うボロが盛んに売買されたことから「ボロ市」の名がついたという。最盛期の昭和初期には出店数は2,000店にもおよび、見世物小屋や芝居小屋もかかる娯楽の場ともなった。現在では、毎年12月・1月の15・16日に開催され、4日間で約70万~80万人もの来場者数という、世田谷を代表する年末年始の風物詩となっている。写真は「世田谷代官屋敷」前の賑わう様子。

井伊家の菩提寺「豪徳寺」 MAP 3

1480(文明12)年、世田谷城主吉良政忠が、城内に伯母の菩提のため「弘徳院」を建立。1633(寛永10)年、世田谷が「彦根藩世田谷領」となると、藩主・井伊直孝が大檀那となり中興。直孝の没後、その法号より寺名が「豪徳寺」と改められ、井伊家の菩提寺となり、直孝の娘、掃雲院により多くの堂舎が建立、寄進された。図は江戸後期の『江戸名所図会』に描かれた「豪徳寺」。南に川(「烏山用水」)が流れ、高台に境内が拡がっている様子がわかる。現在も当時の仏殿(『江戸名所図会』には「本堂」と記載)などを見ることができる。境内の右下には「吉良氏城址」(「世田谷城」のこと)の文字も見える。【図は1834(天保5)年】

上の写真は1934(昭和9)年に寄進された石門。【画像は昭和戦前期】

現在の石門の様子。雰囲気は昭和初期から変わっていない。

上の写真は石門と同年、境内に作られた「豪徳小公園」で、中央の池は「寶珠池」。現在、公園・池はなくなり、跡地は駐車場となっている。【画像は昭和戦前期】

「豪徳寺」は『招き猫発祥の地』ともいわれる。境内の一角にある奉納所には大量の招き猫が奉納されている。


「豪徳寺」と「ひこにゃん」

2007(平成19)年8月に井伊家の菩提寺である「豪徳寺」を訪れ、招き猫とご対面する「ひこにゃん」

2007(平成19)年8月に井伊家の菩提寺である「豪徳寺」を訪れ、招き猫とご対面する「ひこにゃん」

2007(平成19)年に行われた「国宝・彦根城築城400年祭」をPRするためのイメージキャラクターとして誕生した「ひこにゃん」は、近年の「ご当地キャラブーム」の火付け役といわれる。「ひこにゃん」は、彦根藩井伊家の象徴である「赤備え」と呼ばれる兜をかぶる白猫。この白猫は「豪徳寺」の招き猫をモチーフとしている。ちなみに、地元「豪徳寺商店街」には「たまにゃん」という白猫の招き猫キャラクターもいる。

1633(寛永10)年、彦根藩二代目藩主の井伊直孝が世田谷領15ヶ村(後に20ヶ村)を幕府から拝領。その後、「弘徳院」は直孝を大檀那として中興を遂げ、没後はその法号より「豪徳寺」と名を改め、井伊家の菩提寺となった。

この「豪徳寺」には「招き猫伝説」がある。「井伊直孝が鷹狩の帰り道、門前で手を挙げて招く猫(名前は「たま」)がおり、不審に思い寺に入り休息していると、突然の大雨と落雷があり、難を逃れることができ、また、その時の僧の説法から帰依することを決め、井伊家の菩提寺となり、寺勢が再興した」というもの。後に、お寺に福を招いた猫「たま」の墓を建て祀ったことが、招き猫信仰の起源といわれ、現在では『招き猫発祥の地』ともいわれる。ちなみに、「豪徳寺」では招き猫を「招福猫児(まねぎねこ)」と表わす。

一般に招き猫の信仰は江戸時代中期から後期に発生したといわれる。江戸時代後期の『江戸名所図会』で「豪徳寺」は詳細に紹介されているが、招き猫については触れられておらず、当時は、まだ一般に知られる伝説ではなかったとも考えられる。

しかし、井伊家の菩提寺となって以降「豪徳寺」が栄えたことは事実であり、後世、それにあやかりたいと考えた人々により「豪徳寺」の招き猫信仰は益々拡がっている。現在では、奉納所からあふれるほどの招き猫が納められている。



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