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武蔵野の自然と水に恵まれた地


豊島氏が本拠とした「石神井城」 MAP __

「石神井城」は「三宝寺池」の南側の台地に位置し、築城は鎌倉中期~末期頃といわれる。平安末期より「石神井川」下流の「平塚城」を本拠としていた豊島氏は、その後、勢力を西へ拡大し、室町中期頃に「石神井城」を本拠としたという。1477(文明9)年、「石神井城」は太田道灌に攻められて落城、廃城となった。【図は江戸後期】

現在は「都立石神井公園」の一部となり、土塁と空堀が残っている。

江戸時代、幕府の命で建設された「千川上水」 MAP __

1696(元禄9)年、幕府の命により、市中の本郷・下谷・浅草方面の飲料水供給のために、「玉川上水」を分水して「千川上水」が開削された。のちに川沿いの農業用水にも使われ、明治期以降は工業用水としても使用されていた。図は江戸中期に描かれた『江戸上水配水図』で、概ね北が上になるように回転させている。図左が「多摩川」で、羽村で取水した水は「玉川上水」で江戸(図右)へ送られた。図中央付近、右上に延びる青い線が「千川上水」になる。【図は江戸中期】

現在は、ほとんどが暗渠(あんきょ・地下水路)化されている。写真は西武池袋線「中村橋駅」付近の「千川通り」の様子。

武蔵野の湧水池として知られる「三宝寺池」 MAP __

井の頭池」「善福寺池」と並ぶ武蔵野の湧水池の一つ「三宝寺池」。池の南東には1394(応永元)年に創建された、「真言宗」の寺院「三宝寺」がある。「武蔵野台地」の地下水が湧き出した谷頭に水が溜まったため、杓子のような形をしていることが特徴。江戸時代には既に景勝地として知られていた。

写真は「三宝寺池」の中島に鎮座する「厳島神社」で「弁財天」が祀られている。創建年代は不詳ながら「三宝寺」と同時期と考えられている。【画像は明治後期~大正初期】

現在、池周辺は「都立石神井公園」として整備されている。


「富士街道」と沿道の発展

「けやき憩いの森」内に残る「田柄用水跡」

「けやき憩いの森」内に残る「田柄用水跡」(写真右下)。左に見える道が「富士街道」。

練馬区内をほぼ東西に走る都道「富士街道」。江戸時代に「富士山」や相模国(現・神奈川県)の「大山」に参詣する人が通った道の一つで、当時「ふじ大山道」「大山道」「富士山大山道」などと呼ばれていた。この道は、板橋区志村二丁目で旧「中山道」から分かれ「城山道」を通り、「川越街道」の「下練馬宿」へと至る。その後、現「環八通り」とほぼ同じルートを通り、春日町付近から現「富士街道」へ入る。石神井~保谷~田無、さらに古代の武蔵国の中心地・府中へ至る。府中から先は八王子~上溝または田名、小野路~磯部といったルートから「相模川」を渡り「大山」方面へ至る。

1871(明治4)年「富士街道」に沿うように「田柄用水」が開削された。これは、田無、上保谷、関、上・下石神井、谷原、田中、下土支田、上・下練馬の10ヶ村の農業用水で、これにより、明治期に一帯の農地開発は更に盛んになった。
MAP __(田柄用水跡)

「下練馬の大山道道標」

現在の「下練馬の大山道道標」。旧「川越街道」と「大山道」の分岐点に1753(宝暦3)年に建てられた道標で、「環八通り」の工事により元の位置から8mほど西に移動、向きも変更されている。

大正期に入り、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)等の東京西郊に延びる鉄道が開通。「石神井駅」(現「石神井公園駅」)などの駅が置かれると「富士街道」沿道も住宅地・商業地として発展、沿線の交通を支える道路となった。現在も「富士街道」は、都心部から放射状に延びる主要道を結ぶ道路として、商業・経済を支える重要な役割を果たしている。

現在「東武練馬駅」の南東には、1753(宝暦3)年に「下練馬村講中」が建てた「下練馬の大山道道標」がある。また、練馬区錦二丁目には「右ふじ大山道」と記された庚申塔が残されている。その他にも沿道には地蔵、不動といった「大山詣で」「富士信仰」の道としての面影が数多く残されている。
MAP __(下練馬の大山道道標)MAP __(錦二丁目の庚申塔)


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