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城下町から宿場町へ


「滝山城」と「八王子城」

「滝山城」は、戦国時代の1521(永正18)年、武蔵国守護代の大石定重により築かれたといわれる平山城。その後、大石氏は北条氏の勢力下に入り、1569(永禄12)年、小田原へ攻撃に向かう武田信玄軍に落城寸前にまで追い込まれた。写真は本丸跡に1912(明治45)年に建立された「霞(かすみ)神社」で昭和戦前期の撮影。【画像は昭和戦前期】

現在「滝山城跡」の大部分は「都立滝山公園」となっている。「霞神社」には「日露戦争」以降の加住村(現・八王子市加住町周辺)出身の戦没者の英霊が祀られている。 MAP __

「八王子城」は、1584(天正12)年頃から、「滝山城」に代わる、より堅固な山城として北条氏照が築城。平安時代、この山の山頂で妙行という僧が修行していたところ、「牛頭天王(ごずてんのう)」と8人の王子が現れたことから、916(延喜16)年に「八王子権現」を祀ったといわれる。この「八王子権現」が城の守護神とされ、城名の由来となった。写真は昭和戦前期の「八王子神社」(旧「八王子権現」)。「八王子城」は1590(天正18)年に落城した。【画像は昭和戦前期】

現在の「八王子神社」。 MAP __

「八王子城跡」は、1951(昭和26)年に国の史跡に指定、発掘調査や整備が進み、御主殿跡付近の石垣、曳橋などが復元されている。MAP __

江戸時代から伝わる祭

「大善寺」は天正年間(1573~1592年)に「滝山城下」に創建、その後「八王子城下」、江戸時代には「八王子宿」の大横町へと、町と共に移転した。毎年10月に行われる「お十夜(じゅうや)」は、江戸初期に始まった「八王子城」の戦没者供養が元となり、明治期以降規模が拡大。多摩一円から多くの人が集まるようになり、八王子で最も賑わう祭りとなった。写真は大正期の「お十夜」で、左奥に町役場と思われる建物が見えることから、「甲州街道」の八幡町を西向きに撮影しているものと思われる。 MAP __【画像は大正期】

「大善寺」は1961(昭和36)年に郊外へ移転、「お十夜」の開催はなくなっていたが、2012(平成24)年から、「富士見台霊園」内にある現在の境内を会場に復活している。大横町の「大善寺」の跡地は、「コニカミノルタサイエンスドーム」付近となる。 MAP __

現在の元横山町にある「八幡八雲神社」のうち、「八幡神社」は、924年(延長2年)、「石清水八幡宮」を観請したことに始まる。「八雲神社」の御神体である「八王子権現」は、「八王子城」の落城時に城兵により持ち出され、川口村黒沢(現・上川町)で祀られていたが、1597(慶長3)年の洪水で流され「浅川」の新町の北に漂着、拾った農民が自宅で祀ったのち「八幡神社」内に遷座、1653(承応2)年、両社の棟を並べ社殿が建てられた。「八雲神社」の例大祭は毎年7月に行われ、かつては神輿の渡御の際、故事にちなみ「浅川」の中を下った。写真は1936(昭和11)年に行われた市制20周年記念の例大祭の「暁橋」付近。【画像は1936(昭和11)年】

現在の「暁橋」。MAP __

八王子の山車祭りは江戸時代に始まり、およそ300年の歴史がある。現在の「国道16号」を境に、西側の「多賀神社」の氏子地域では「上の祭り」、東側の「八幡八雲神社」の氏子地域では「下の祭り」として別々に行われてきた(大横町のみ、江戸時代より両神社の氏子地域があり、祭礼には隔年ごとに交代で参加)。「八幡八雲神社」の社殿などの建物は1897(明治30)年の「八王子大火」で焼失、1913(大正2)年に再建され、「八幡八雲神社遷宮大祭」が盛大に行われた。写真はその際の大横町の山車の巡行の様子。【画像は1913(大正2)年】

八王子市では1961(昭和36)年から「八王子市民祭」が始まり、1968(昭和43)年から「八王子まつり」として「上の祭り」「下の祭り」が統合され山車巡行が行われるようになった。写真は2018(平成30)年の「八王子まつり」の上地区の様子。大横町の山車は1911(明治44)年に作られた歴史あるもの。 MAP __

写真は1936(昭和11)年の市制20周年記念の例大祭での「南新町」の山車で、八日町の現「ビュータワー八王子」付近から南側を撮影したものと思われる。「南新町」の山車は1933(昭和8)年に新調されたが、「八王子大空襲」で焼失した。左下に路面電車の線路と敷石が見える。 MAP __【画像は1936(昭和11)年】


城下町から発展した八王子

江戸後期に描かれた「八王子十五宿」

江戸後期に描かれた「八王子十五宿」

旧「甲州街道」沿い

現在の東浅川町の旧「甲州街道」沿いには、「千人同心」の家系を継ぐ旧家の家並みが残っている。

戦国時代に築かれた「滝山城」は、現在の八王子の中心部から北に5kmほどの地にあった。城の南東、現在の「滝山街道」付近には横山・八日市・八幡(以下「三宿」)からなる城下町が発達した。その後、北条氏照により「滝山城」に代わる、より堅固な「八王子城」が「深沢山」(現「城山」)に築かれると、「三宿」も新しい城下町の商業地として、現在の「高尾街道」沿いに移転。しかし「八王子城」は、1590(天正18)年「小田原合戦」の一環として豊臣秀吉の軍勢により攻められ(「八王子城合戦」)、落城した。 MAP __(滝山の「三宿」付近) MAP __(元八王子の「三宿」付近)

同年、北条氏に代わって関東の領主として徳川家康が江戸に入ると、八王子は大久保長安を代官頭とする直轄領とされた。「甲州街道」の整備が行われ、甲斐方面からの防衛・交通・交易の拠点となる新たな宿場町が作られることになり、再び「三宿」は移転、治安維持を担う「千人同心」の千人町への移住をもって、1593(文禄2)年、八王子の町が完成した。元の「八王子城」の城下町は元八王子と呼ばれるようになった。この2度の移転では、いくつかの寺院も共にしている。「千人頭」によって統率された「千人同心」は、周辺の村に居住し、武士としての役目を勤める時以外は農業に従事した。1652(慶安5)年より「千人同心」に命じられた「日光火の番」は、明治時代を迎えるまで続けられた。 MAP __(千人町付近)

「三宿」が移転して誕生した「八王子宿」には、江戸前期までに新たな宿が加えられ「八王子十五宿」とも呼ばれるようになった。「横山宿」(現・横山町)「八日市宿」(現・八日町)には本陣・脇本陣が置かれ、また、毎月4のつく日は「横山宿」、8のつく日は「八日市宿」で市が開かれたことから商業地としても発展。「三宿」を中心とした賑わいは、明治期以降も引き継がれた。 MAP __(横山町付近) MAP __(八日町付近)



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※本ページでは「京王電軌軌道」を「京王電軌」と略記し、また、「京王電軌」「京王帝都電鉄」が現在の「京王電鉄」であることについて、本文内では省略している。「鉄道院」「鉄道省」の国有鉄道についても「国鉄」と表記し、また「国鉄」が現在の「JR」であることについて、本文内では省略している。「甲州街道」は江戸時代には「甲州道中」と呼ばれていたが、本文内では「甲州街道」で統一して表記している。



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