江戸期に入るまで、現在の丸の内から新橋にかけての一帯には浅瀬の海が広がり(「日比谷入江」)、現在の銀座のあたりは砂が堆積し半島となっていた(「江戸前島(えどまえじま)」)。徳川家康は、江戸を開府した1603(慶長8)年から、全国の大名に普請を命じ、「外濠」や運河の開削、「平川(日本橋川)」といった河川の付け替えなど、江戸の街の大改造を行った。「日比谷入江」は1592(天正20)年、「西の丸」の築城工事の残土で埋め立てが始まり、1603(慶長8)年から本格化した。開府の翌年の1604(慶長9)年、「日比谷入江」の埋立て地及び「江戸前島」を通る形で「東海道」が延伸された(1601(慶長6)年の制定当初は今の港区芝一丁目あたりが起点であった)。「京橋」「新橋」は、「東海道」の橋として慶長年間に架橋されて以来の橋名・地名となる。図は現在の地形・標高を色と影で表現した「陰影段彩図」に、「地形分類図」(「国土地理院」作成)記載の「砂州・砂堆」(黄色横線)、「旧水部」(現在の水部も含む・青色斜線)の形状を重ねたもの。
銀座・京橋一帯の街は、江戸時代に「東海道」沿いの町人地として誕生、職人などが多く暮らし、商店や芝居小屋などで賑わった。「京橋」周辺には「大根河岸(青物市場)」と「竹河岸」ができ、舟運による物流の拠点ともなった。銀座は1872(明治5)年の大火を機に煉瓦街が造られ西洋風の街並みとなり、西洋からの商品や文化が集まる先進的な街に。また、新聞社や印刷所も立地するようになり、情報の発信地としての役割も担うようになった。「関東大震災」では大きな被害を受けるも復興は早く、復興時に建設されたビルの中には現在残るものもある。「太平洋戦争」中の大空襲でも大きな被害を受けるも再び復興、華やかな高度経済成長期を経て現在に至る。