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「青梅街道」と寺社


源頼義が創建したといわれる「大宮八幡宮」 MAP __

「大宮八幡宮」は、「前九年の役」で奥州を平定した清和源氏の武将・源頼義が1063(康平6)年に「石清水八幡宮」の御分霊を得て神社を建て、その子の源義家が「後三年の役」ののちに社殿を修築したと伝わる。写真は大正期の鳥居と参道で、奥には本殿が見える。1969(昭和44)年の発掘調査で、境内の北端に続く旧境内地から弥生時代の祭祀遺跡や族長の住居跡が発掘され、太古からの聖域であったことが判明している。【画像は1919(大正8)年】

広さは東京23区内の神社のうち「明治神宮」「靖國神社」に次ぎ3番目に大きく、1万5,000坪の境内には本殿のほか、結婚式場「清涼殿」、弓道場「振武殿」、「大宮幼稚園」などもある。

「青梅街道」と「中野塔」

「青梅街道」は、江戸初期の1606(慶長11)年に「江戸城」修築に必要な石灰を上成木村・北小曽木村(現・青梅市)から運ぶため、大久保長安が中心となって開削した街道。図は『江戸名所図会』に描かれた「中野塔」で、「宝仙寺」の東にあった。手前が「青梅街道」で、人馬の往来、葭簀(よしず)張水茶屋、商売家の様子がわかる。【画像は1836(天保7)年】

明治期に入ると馬車が走り、石灰石や丸太の輸送が行われるようになった。1889(明治22)年、「甲武鉄道」(現・JR中央線)が開通し、輸送の役割は徐々に鉄道へと替わっていった。写真は現在の「中野坂上交差点」で、左右に延びる道が「青梅街道」、交差する道が「山手通り」。中央奥のビルの裏手に「中野塔」跡地となる「中野区立中野東中学校」がある。MAP __

「中野塔」は高さ約24mの三重塔で、江戸初期の1636(寛永11)年、地元の村人・飯塚惣兵衛夫妻により建てられ、江戸中期の宝暦年間(1751~1764年)に焼失、安永年間(1772~1781年)に再建されたといわれる。写真は1932(昭和7)年頃の「中野塔」。1945(昭和20)年の空襲により焼失した。 MAP __【画像は1932(昭和7)年頃】

跡地には、1954(昭和29)年に「中野区立第十中学校」が開校、2018(平成30)年に統合により「中野区立中野東中学校」となり、この地に同校の新校舎と、子ども・若者支援センター等複合施設「みらいステップなかの」が建設され、2021(令和3)年より使用が開始された。写真は「中野区立第十中学校」の敷地に隣接してある「宝仙寺三重塔記念碑」。写真右手が「中野区立第十中学校」の校舎で、実際に塔があった場所は現在の校庭付近となる。「中野塔」は、このあたりの旧町名・塔の山の由来となっている。

「目の薬師」「子育薬師」として信仰を集める「新井山梅照院」 MAP __

「新井山梅照院」は、鎌倉末期、行脚の途中の僧侶により草庵が結ばれたことに始まる。安土桃山時代の1586(天正14)年、草庵にあった梅の古木が光り輝いたため、調べると二仏一体の薬師如来像・如意輪観音像が発見されたといい、その後、この二仏を祀るため「新井山梅照院」(一般に「新井薬師」と呼ばれる)が建立された。江戸時代には二代将軍・徳川秀忠の五女・和子(のちの東福門院)が祈願し眼病が快癒したことから、目の病にご利益がある「目の薬師」として信仰されるようになり、また、江戸初期に住職が薬師如来の啓示を受け、小児薬「夢想丸」を生み出し評判になったことから「子育薬師」としても広く参詣者を集めるようになった。この本尊は秘仏とされ、12年に一度、寅年に開帳されている。

写真は昭和戦前期の本堂。1927(昭和2)年に西武村山線(現・新宿線)が開通すると、「新井薬師前駅」も開設された。【画像は昭和戦前期】

「新井薬師」の境内には本堂のほか、太子堂、額堂、銀杏や杉の巨木などがあったが戦災で焼失。現在は本堂、えんま堂(旧大師堂)、庫裏(くり)が復興されている。

除厄けで多くの参詣者を集める「妙法寺」 MAP __

「妙法寺」は、元は真言宗の尼寺(創建は不詳)であったが、江戸初期の元和年間(1615~1623年)、覚仙院日逕(かくせんいんにっけい)上人が母の菩提のために日蓮宗に改宗し、寺名を「妙法寺」へ改めた。

「祖師堂」の日蓮像は、日蓮聖人の「伊豆法難」のとき、日朗上人(高弟である「六老僧」の一人)が鎌倉・由比ヶ浜に流れ着いた霊木に御影を刻んで礼拝したものといわれる。この日蓮像は、碑文谷村(現・目黒区碑文谷)の「法華寺」(現「円融寺」)で祀られていたが、1698(元禄11)年に「法華寺」が日蓮宗から天台宗へ改宗させられたため、「妙法寺」へ移され、以降「祖師堂」で祀られるようになった。

「伊豆法難」のとき、日蓮聖人は42歳の厄年だったことから、「祖師堂」の日蓮像は「やくよけ祖師」として、現在に至るまで除厄けの寺としても信仰を集めている。江戸期より「おそっさま」とも呼ばれ親しまれており、古典落語の『堀の内』では、粗忽者が道に迷うなどの騒ぎを起こしながら「妙法寺」へ参詣する様子が、面白おかしく描かれている。

写真は昭和戦前期の「祖師堂」。【画像は昭和戦前期】

写真は現在の「祖師堂」。この建物は1960(昭和35)年に東京都指定有形文化財となっている。


「青梅街道」から「妙法寺」へ向かう道の分岐点で発展した「鍋屋横丁」

大正期の「鍋屋横丁」の文具店

写真は大正期の「鍋屋横丁」の文具店。【画像は大正期】

江戸時代、「青梅街道」が通る現在の中野本町付近から、北は「新井薬師」へ、南は「堀之内妙法寺」へと分岐する、「堀之内道」「妙法寺道」などと呼ばれる参詣道があった。その分岐点に「鍋屋」という茶店があったことから、この付近は「鍋屋横丁」の名前で呼ばれた。「鍋屋」は広大な敷地に二百数十株の梅林を営み、参詣客や文人墨客なども遊覧に訪れたという。江戸前期の元禄期から語り継がれる古典落語『堀の内』にも「鍋屋横丁」の地名が登場する。昭和初期頃には「中野銀座」とも呼ばれるほど賑やかな場所として知られていた。

『西武鉄道沿線図絵』のうち、西武新宿軌道線部分

『西武鉄道沿線図絵』のうち、西武新宿軌道線部分。【図は昭和初期】

「青梅街道」には、1921(大正10)年に「西武軌道」(のちの西武新宿軌道線・都電杉並線)が開通し「鍋屋横丁停留場」が置かれた。図は昭和初期、鳥瞰図絵師・金子常光(つねみつ)により描かれた『西武鉄道沿線図絵』のうち、西武新宿軌道線部分(下の線)。沿線の名所として、「妙法寺」「新井薬師」などが記載されている。

1979(昭和54)年に設置された「鍋屋横丁の由来」の案内板

1979(昭和54)年に設置された「鍋屋横丁の由来」の案内板。MAP __

1961(昭和36)年、営団地下鉄(現・東京メトロ)荻窪線(現・丸ノ内線)が開通し、「新中野駅」が置かれた(都電杉並線は翌々年に廃止)。「新中野駅」は、「鍋屋横丁停留場」より若干西寄りとなる。駅付近は「鍋屋横丁」の歴史を引き継ぐ商店街となっており、毎年夏には「なべよこ夏まつり」などのイベントも開催されている。


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