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江戸期の千住


「千住大橋」と「千住宿」 MAP __(千住大橋)

「千住大橋」は、江戸に入府して間もない徳川家康の命により、1593(文禄2)年に着工、翌1594(文禄3)年に完成した橋で、当初は「大橋」と呼ばれた。「入間川」(のちの「荒川」、現「隅田川」)に初めて架けられた橋であった。1603(慶長8)年に江戸幕府が開かれると、家康は各地を結ぶ街道の整備に着手。家康の没後の1624(寛永元)年、江戸から、家康の墓所となっていた日光へ向かう「日光街道」の整備が始められ、翌年に「千住宿」が宿場町として建設された。当初、「千住宿」は千住一丁目~五丁目(現・足立区千住一丁目~五丁目)が整備されたが、その後、1658(万治元)年に「掃部(かもん)新田」、1660(万治3)年に「隅田川」南岸の「小塚原町」「中村町」(現・荒川区南千住)が加えられ拡大した。図は1865(慶応元)年に橋本貞秀が描いた『日光御街道千住宿日本無類楠橋杭之風景本願寺行粧之図』。図の左奥の町が「掃部宿」となる。【図は1865(慶応元)年】

江戸前期までの「千住大橋」は現在より200mほど上流に位置していたが、1684(天和4)年の架け替えで現在の位置となった。「千住大橋」は記録に残るだけでも8回の架け替えが行われている。写真は明治初期の「千住大橋」。江戸後期に架橋された木橋であったが、1885(明治18)年の洪水で流出、翌年、木橋が再架橋された。【画像は明治初期】

木橋だった「千住大橋」は「関東大震災」で失われ、1927(昭和2)年、震災復興事業の中で、東京府(現・東京都)により鉄橋で再架橋された。翌1928(昭和3)年には東京市電が「千住大橋」を渡り、「千住四丁目停留場」まで延伸された。写真は昭和初期の「千住大橋」で、中央に東京市電が見える。【画像は昭和初期】

写真は現在の「千住大橋」。1927(昭和2)年架橋の鉄橋は現在も残り、「国道4号」の下り線として使用されている。写真右の橋は1973(昭和48)年に竣工しており、上り線として使用されている。

浮世絵に描かれた「関屋の里」と「掃部堤」

図は葛飾北斎により1831(天保2)年~1833(天保4)年頃に描かれた『冨嶽三十六景 隅田川関屋の里』。3騎の早馬が「掃部堤」を走る様子と、遠くに「赤富士」が描かれている。千住周辺では、江戸初期の「千住宿」建設より前から新田開発が行われていた。その新田の一つ、石出掃部介吉胤(いしでかもんのすけよしたね)による「掃部新田」の開発では、1617(元和3)年に治水のための「掃部堤」が築かれた。1658(万治元)年に「掃部新田」は「千住宿」に編入されその一部、「掃部宿」となった。画題にある「関屋の里」は、鎌倉時代に「隅田川」沿いに関所が置かれたことに始まる地名といわれ、江戸期には閑静幽雅な地として文人墨客に親しまれた。【図は1831(天保2)年~1833(天保4)年頃】

かつて「関屋の里」と呼ばれた場所は、現在の京成電鉄「京成関屋駅」・東武鉄道「牛田駅」を中心とする、「隅田川」北岸一帯。「掃部堤」の大部分は、現在「墨堤通り」と呼ばれる通りになっている。写真は「京成関屋駅」付近で、かつて「掃部堤」があった通りの様子。
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「水戸街道」と「槍かけ松」 MAP __

「清亮寺(せいりょうじ)」は1619(元和5)年に開山した「日蓮宗」の寺院で、門前には「水戸街道」に覆い被さる松があった。江戸期の「水戸街道」は、脇往還として重要視された道で、「千住宿」で「日光街道」から分岐していた。江戸前期の頃、徳川光圀の大名行列が「清亮寺」の前をさしかかった。大名行列では、槍を傾けたり、倒したりすることは御法度なため、往来を邪魔する松があれば切ることになるが、光圀はこの名松を守るため、ここでの休憩を指示し、槍を松の幹に立てかけさせることで、松を切ることなく通り過ぎたという。この話が広まると、「清亮寺」の参詣者が増え、いつしか山門の松は「槍かけ松」と呼ばれるようになった。写真は明治後期~大正期の様子で、右の道が「水戸街道」で、写真外左から「槍かけ松」が伸びている。【画像は明治後期~大正期】

写真は現在の「清亮寺」の門前の様子。「槍かけ松」は1945(昭和20)年頃に枯れたといわれる。「清亮寺」の近隣にある1948(昭和23)年創業の団子屋「槍かけだんご かどや」では、「槍かけ松」の話をもとに、串を槍に見立てた「槍かけだんご」を販売し、千住の名物となっている。
MAP __(かどや)

「日光街道」沿いに置かれた「小塚原刑場」

「小塚原(こづかっぱら)刑場」は「日光街道」(浅草経由のルート)沿いに置かれた刑場で、1667(寛文7)年以前に浅草聖天町あたりから移転してきたといわれている。磔や獄門などの処刑が執り行われ、刑死者の遺体を使った刀の試し切りや杉田玄白らによる遺体解剖も実施された。刑死者のほか、行き倒れなどの無縁の死者、徳川将軍家の亡くなった馬の埋葬地にもなっており、その供養は「小塚原回向院」が担った。刑場は1873(明治6)年に廃止されたが、それまでに約20万人が処刑されたという。写真の「南無妙法蓮華経」と刻まれた「題目塔」は1698(元禄11)年、「延命地蔵尊」(通称「首切り地蔵」)は1741(寛保元)年に刑死者を弔うために建立されたもの。1895(明治28)年、日本鉄道隅田川線(現・JR常磐線)の敷設工事が行われた際、境内は線路により分断、「題目塔」と「首切り地蔵」の場所は線路の敷地となったため、南側の現在地付近へ移された。【画像は1910(明治43)年】

「小塚原回向院」の境内のうち、JR常磐線の南側部分は1982(昭和57)年に分割され「延命寺」となった。「首切り地蔵」は2011(平成23)年の「東日本大震災」で被災し、一旦解体されたが、翌年修復された。写真は現在の様子で、背後にJR常磐線の電車が通る。
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『奥の細道』の「矢立初め」の地

1689(元禄2)年、深川にあった「採荼(さいと)庵」を出た松尾芭蕉は、船で「隅田川」を上り、「千住大橋」付近にある船着き場に降り立った。芭蕉はここから、弟子の河合曾良(そら)を伴って『奥の細道』への旅に出かけた。それから約5ヶ月間にわたって奥州や北陸をめぐり、美濃国大垣(現・岐阜県大垣市)へ至っている。この旅は、1694(元禄7)年頃に『おくのほそ道』として刊行された。千住を立つ際に、芭蕉は大勢の門人に見守られながら「行春や 鳥啼魚(とりなきうお)の 目は泪」という「矢立初め」の句を詠んでいる。図は江戸中期の1778(安永7)年に与謝蕪村が描いた『奥之細道 上巻』の一部。【図は1778(安永7)年】

写真右は2006(平成18)年に「千住大橋公園」に建てられた「奥の細道 矢立初めの地」の碑。矢立とは、当時の携行できる筆のことで、「矢立初め」は旅の最初に詠んだ句を意味する。
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※本ページでは、旧「千住宿」(現「北千住駅」「南千住駅」)およびその周辺を対象としている。
 「日光街道」などの街道名は、江戸時代は「海道」「道中」とも呼ばれたが、本ページでは「街道」で統一している。
 特に明記していない場合、「震災」は「関東大震災」、「戦前」「戦時中」「終戦」「戦後」「戦災」の戦争は「太平洋戦争」のことを示している。



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