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近世までの歴史


「荏原台古墳群」の「亀甲山古墳」 MAP __

大田区から世田谷区にかけての「武蔵野台地」の南端部、「多摩川」の河岸段丘上には「田園調布古墳群」(主に大田区域内)、「野毛古墳群」(主に世田谷区域内)があり、総称して「荏原台(えばらだい)古墳群」と呼ばれる。「荏原台古墳群」で最大となる全長約107m、高さ約10mの規模を誇る「亀甲山(かめのこやま)古墳」は前方後円墳で、4世紀後半に築造された首長墓と考えられている。写真は1935(昭和10)年頃の撮影。1928(昭和3)年に国の史跡に指定されている。【画像は1935(昭和10)年頃】

「亀甲山古墳」の後円部の南端部分は、大正期に「玉川水道」の「調布浄水場」の沈殿池を建設するために一部(写真正面の樹木がある場所付近)が削られた。現在、「亀甲山古墳」を含む一帯は「多摩川台公園」となっており、園内に古墳展示室が設けられているほか、「調布浄水場」の沈殿池跡は水生植物園となっている。

東京23区内唯一といわれる渓谷「等々力渓谷」 MAP __

「等々力渓谷」は、「国分寺崖線」の最南端部を「谷沢川」が削った、東京23区内唯一ともいわれる渓谷。1930(昭和5)年から1938(昭和13)年にかけて「玉川全円耕地整理組合」により整備され小径が設けられた。写真は1958(昭和33)年頃の撮影で、架け替え前の木の橋が写っている。【画像は1958(昭和33)年頃】

現在の「ゴルフ橋」(写真の赤い橋)は1961(昭和36)年に架け替えられた。この橋名は、戦前に近くにあった「玉川(等々力)ゴルフコース」に由来する。ただし、「ゴルフ橋」がここの橋の正式名として命名されたのは、ゴルフ場閉鎖より20年以上後の架け替え時。

「等々力渓谷」に開かれた霊場「等々力不動尊」 MAP __

「等々力不動尊」は平安時代後期、真言宗中興の祖・興教大師覚鑁が夢のお告げにより、役行者作の不動明王像を安置して開いたと伝わる霊場。写真は「等々力渓谷」の崖を下り「不動の滝」へ向かう石段で明治後期~大正期の撮影。【画像は明治後期~大正期】

写真は現在の「不動の滝」へ向かう石段。

「不動の滝」は、「等々力渓谷」の崖から湧き出る滝で、古くから修行の場となっている。写真は明治後期~大正期の撮影。【画像は明治後期~大正期】

現在も「不動の滝」は修行の場となっている。

「洗足池」と日蓮聖人

「洗足」の地名は、中世のこのあたりの地名「荏原郡千束郷(せんぞくごう)」に由来する。千束には灌漑用の大池があり、1282(弘安5)年、日蓮聖人が池上(のちの「池上本門寺」)に向かう途中、足を洗ったという伝説から「千束の大池」が「洗足池」と呼ばれるようになったという。図は歌川広重(初代)による『名所江戸百景 千束の池袈裟懸松(けさがけのまつ)』。この松は日蓮聖人が足を洗った際、袈裟を掛けたといわれている。【図は1856(安政3)年】

「洗足池」は「清水窪湧水」などを水源とする。周辺は水生植物園や「池月橋」などがある「大田区立洗足池公園」として整備されている。 MAP __

現在、池畔の寺院「御松庵妙福寺」には三代目といわれる「御袈裟懸松」がある。 MAP __

「九品仏」と「おめんかぶり」 MAP __

浄土宗の「九品山浄真寺」は、9体の阿弥陀如来像が奉安されていることから一般に「九品仏(くほんぶつ)」と呼ばれる。中世に「奥沢城」があった場所を江戸期に地元の名主が譲り受け、1678(延宝6)年に開山となった。写真は1793(寛政5)年建立の仁王門で昭和初期の撮影。1965(昭和40)年に本堂と仁王門が茅葺から銅板葺に改修された。【画像は昭和初期】

3年ごとに行われる、「二十五菩薩来迎会(おめんかぶり)」は、阿弥陀如来が二十五菩薩を従え西方極楽浄土より来迎するという、浄土の教えを具現化した法要で、当日は「上品堂」から「本堂」へ橋が架けられ、菩薩のお面をかぶった信者が渡る儀式が行われる。写真は1927(昭和2)年に行われた時のもの。江戸前期の元禄以来、300年の伝統があり、東京都無形民俗文化財にも指定されている。【画像は1927(昭和2)年】

写真は2017(平成29)年開催時の撮影。


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※本ページでは「東京急行電鉄」を「東急電鉄」または「東急」と略記している。
※「自由が丘」の地名・駅名は1965(昭和40)年に「自由ヶ丘」より改称されており、本ページでは歴史的な事項については時期により使い分けて表現している。



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