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風光明媚な別荘地


全国の「お稲荷さん」の総本宮、「伏見稲荷大社」 MAP 1

「稲荷山」の参道に美しい鳥居が並ぶ風景が有名な「伏見稲荷大社」。全国に3万社あるといわれる稲荷神社(お稲荷さん)の総本宮で、商売繁盛、五穀豊穣の神様として信仰を集める。創建は711(和同4)年で、深草(ふかくさ)の地に住み着いた渡来人の秦氏が稲荷神を奉鎮したのが始まりとされる。御祭神は、下社が「宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)」、中社が「佐田彦大神(さたひこのおおかみ)」、上社が「大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)」である。【画像は明治後期】

現在の様子。今日の名所をつくった、参道へ鳥居を奉納する信仰は江戸時代には存在した。「稲荷山」を含む境内は広く、本殿、権殿などが国の重要文化財に指定されている。

洛西の地に、紫式部ゆかりの「大原野神社」 MAP 2

「小塩山(おしおやま)」の東麓にある「大原野(おおはらの)神社」は、「長岡京」への遷都が行われた784(延暦3)年、桓武天皇の后、藤原乙牟漏(おとむろ)が藤原氏の氏神である「春日大社」の分霊を勧請(かんじょう)したとされ、社殿は850(嘉祥3)年に文徳天皇が造営した。「京春日(きょうかすが)」とも呼ばれ、「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがえる」の和歌を残した歌人、紫式部ゆかりの神社でもある。【画像は1915(大正4)年】

参道の階段を登った先には「中門」と「東西廊」に囲まれた「本殿」が佇んでいる。一の鳥居から三の鳥居まで約200m続く参道は紅葉の名所としても知られ、毎年多くの人で賑わう。

白河上皇、鳥羽上皇らが院政を行った「鳥羽離宮」 MAP 3(鳥羽離宮跡公園) MAP 4(城南宮)

「鳥羽離宮」は白河天皇が譲位後、現在の南区上鳥羽、伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯に築いた御所で「鳥羽殿(とばどの)」とも呼ばれた。鳥羽上皇、後白河上皇らも同地で院政を行い、政治を動かす場所となった。最盛期には南北約1km、東西約1.5kmの規模を誇り、京などとともに、政治・経済・文化の中心地でもあったが、南北朝時代の戦火で多くの殿舎が焼失したとされる。画像は、江戸時代に出版された京都の名所案内書の中で描かれた「城南宮」で、1086(応徳3)年に「鳥羽離宮」が造営されると、その鎮守社となった。【画像は1787(天明7)年頃】

現在の「城南宮」。「鳥羽離宮」の敷地にあった建物のうち、現在残されているのは「城南宮」のほか、「安楽寿院」、「秋の山」、「白河」・「鳥羽」・「近衛」各天皇陵のみ。「鳥羽離宮」の築山跡と考えられている「秋の山」周辺は、現在、「鳥羽離宮跡公園」として整備されている。


八条宮智仁親王が造営した名建築「桂離宮」 MAP 5

「桂離宮」

「桂離宮」

八条宮智仁(としひと)親王は、正親町(おおぎまち)天皇の第一皇子誠仁(さねひと)親王の第6子として、1579(天正7)年に誕生した。若くして豊臣秀吉の猶子(ゆうし)となり、豊臣家の後継者として期待されていた。しかし、秀吉に実子が生まれたために解消され、1590(天正18)年に八条宮家を創設した。八条宮の別荘として「桂川」の畔に建てられたのが名建築「桂離宮」である。もともと、桂の地には平安時代に藤原道長の別荘「桂山荘」があり、これは『源氏物語』で描かれた、光源氏の「桂殿」のモデルとされる。

桂の地で造営が始まったのは、1615(元和元)年頃とされ、現在も残る「古書院」の原形が建築された。

智仁親王は1629(寛永6)年に死去し、「桂離宮」は一時的に荒廃したが、1641(寛永18)年の智忠親王による、「中書院」の造営などで規模が拡大された。この智忠(としただ)親王は、1662(寛文2)年に死去するが、翌年には後水尾(ごみずのお)上皇を「桂離宮」に迎えることが決まっており、新たに「新御殿」と呼ばれる建物が増築された。その後も建物や庭園の整備が行われ、現在のような約2万坪の面積をもつ、美しい回遊式庭園と建物群が調和した「桂離宮」となった。

なお、桂(八条)宮家は1881(明治14)年に断絶し、「桂離宮」は「宮内省(現「宮内庁」)」の管轄となった。1976(昭和51)年から1982(昭和57)年にかけて「昭和の大修理」が実施された。現在は予約制で一般にも公開されており、日本庭園として最高の名園といわれる「桂離宮」を楽しめる。


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※「おおさか」を漢字で書くとき「大阪」と「大坂」の表記がある。江戸時代は、「大坂」と書かれることが多かったが、大坂の「坂」の字が「土に反る」と読めるので縁起が悪いという理由で(諸説あり)、明治時代以降「大阪」に統一された。本文中では、江戸時代以前は「大坂」、明治時代以降は「大阪」に便宜上統一した。



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