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宿場町 内藤新宿の誕生


甲州街道の宿場町として、内藤新宿が開かれる MAP 1

徳川家康が整備し幕府直轄で管理された“五街道”。その中の一つであり、江戸から下諏訪で中山道と合流する、甲州街道の宿場町として、1698(元禄11)年6月に誕生したのが「内藤新宿」である。新宿とは、甲州街道に追加で設けられた新しい宿場という意味。主要な街道の第一宿は日本橋からおよそ2里~2里半に置かれていたが、甲州街道の第一宿は日本橋から4里の上・下高井戸宿であったため、間を埋める格好で宿場町が形成された。

かつての「内藤新宿」は、現在の新宿通り周辺にあった。写真は新宿三丁目の交差点から見た新宿の風景で、右側に「伊勢丹新宿店」、左側に「新宿マルイ本館」が建つ。

物資の輸送で活況を呈した内藤新宿 MAP 2

「内藤新宿」の宿場町が形成されていたのは、「四谷大木戸(現・四谷四丁目交差点)」から「追分(現・「伊勢丹新宿店」前)」の周辺までであった。その光景を、浮世絵師・歌川広重が「名所江戸百景」の一枚「四ツ谷内藤新宿」に描いている。馬に乗せられ、甲州、信州をはじめ多摩・秩父地域から、鉱物や農産物が江戸に運ばれた。甲州街道は他の五街道と比較すれば交通量は少なかったというが、浮世絵の描写を見ると多くの牛馬が行き交い、物流の拠点として活況を呈していた様子がうかがえる。【画像は1857(安政4)年】

現在の新宿一丁目周辺。かつて宿場町として賑わった内藤新宿の中心地は、オフィス街へと様変わりした。

内藤家の屋敷地が、宿場町に変貌

宿場町が開かれる前のこの地には、信州高遠藩主の内藤家や、江戸幕府旗本の朝倉家の屋敷地が並んでいた。内藤家が幕府に返上した屋敷地の一部に宿場町が造られたことが、「内藤新宿」と呼ばれる所以だ。宿場は「上町」「仲町」「下町」に分けられており、「太宗寺」などの現存する寺社も見て取れる。現在の西新宿にあたる西(左)側は、「十二社(熊野神社)」があるのみで、原野が広がっている。【地図は1849-1862(嘉永2-文久2)年】

内藤新宿の賑わいの中心「太宗寺」 MAP 3

現在、新宿二丁目にある浄土宗寺院「太宗寺」は、1668(寛文8)年に信州高遠藩主・内藤正勝の長男・重頼から土地の寄進を受けて創建され、内藤家の菩提寺として繁栄した。江戸の街の出入口を示すために6ヶ所に造立された“江戸六地蔵”の3番目の像のほか、江戸の人々に信仰された「閻魔像」も安置する。「内藤新宿」の栄えた当時は、参道や境内に仲見世も出来るなど、宿場の賑わいの中心地でもあったという。この錦絵は、江戸時代に話題となった閻魔像の目が取られた事件を描いたもの。【画像は1847(弘化4)年】

現在も境内に鎮座する「銅造地蔵菩薩坐像」。閻魔像の安置される「閻魔堂」は、7月15・16日に御開扉される。


浅草町人により開かれた計画的な賑わいの地

「内藤新宿」誕生を語る上で、高松喜六の名前を外すことはできないだろう。浅草の阿部川町(現在の「上野」駅の東側)の名主だった喜六を中心とした浅草の町人たちは、現在の新宿の地に、新たな宿場町の開設を計画した。喜六は幕府に対し、宿場開設にあたり上納金五千六百両を納め、街を整備する費用の負担を申し出た。

喜六を開発に駆り立てた動機は何だったのだろうか。江戸時代は街道の交通量が増加し、宿場町の需要が高まった。また、日光街道の「千住宿」などは「日光東照宮」への参拝客のほか、日帰りで行ける行楽地・繁華街として江戸の住民で賑わいを見せていたという。そのような光景を目の当たりにした喜六は、宿場町の開設によって新たに繁華街を造り出せば、大きな利益を生み出せると考えたに違いない。

幕府の許可を得た喜六たちの手により、信州高遠藩主の内藤家、旗本の朝倉家の屋敷地の一部は姿を変え、「品川宿」、「板橋宿」、「千住宿」とともに、後に“江戸四宿”と呼ばれる「内藤新宿」の宿場町が整ったのである。

現在、若葉二丁目にある「愛染院」に喜六の墓標が建立され、新宿区指定史跡となっている。新宿発展の礎を築いた人物として、これからも顕彰されていくことだろう。



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