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人と物が行き交う街

江戸の街は約60%が「武家地」で、残り約20%ずつを「寺社地」と「町人地」で分けていたという。水運に便利な川・運河沿いの土地の多くも幕府や諸大名が「物揚場」として利用しており、町人である商人は、市街地の入堀など、限られた場所の河岸を利用することとなった。河岸では荷物の陸揚げだけではなく、商人が取引を行う市場としての機能も併せ持ち、「米河岸」「塩河岸」など、特定の品目を扱う河岸も発展。「日本橋」周辺は、このような商人のための河岸が発達したため、江戸の商業の中心地として賑わうこととなった。また、「五街道」の起点も「日本橋」に定められ、陸海の交通・物流の要衝としても発展していった。


「五街道」の起点から国道の起点へ

「東海道」は、1601(慶長6)年に徳川家康により整備された、江戸と京都を結ぶ街道で、当初は、現在の港区芝四丁目あたりが起点だった。1603(慶長8)年に「日本橋」が架橋、翌1604(慶長9)年に「東海道」が延伸され、「日本橋」が起点となった。その後、1636(寛永13)年頃に「日光道中」、1646(正保3)年に「奥州道中」、1694(元禄7)年に「中山道」、1772(明和9)年に「甲州道中」と、「五街道」が整備され、「日本橋」は、それぞれの街道の起点となった。「五街道」は、大名の「参勤交代」をはじめ、商人や旅人などに利用された、人や物、文化が行き交う主要な街道であり、「日本橋」は、その中心地であった。図は歌川広重が描いた『東海道五拾三次 日本橋・朝之景』で、「日本橋」の南側から北方向を描いている。日本橋の朝は早く、朝4時に木戸が開かれ、「魚河岸」が賑わいを見せた。左下には対岸の「魚河岸」で魚を仕入れたあとに天秤棒で運ぶ人、その後には、幕府のお触れを掲示する高札場(こうさつば)、中央に「日本橋」を渡る大名行列が描かれている。MAP __(高札場跡)【図は1833(天保4)年頃】

1876(明治9)年、太政官布告により「国道」という言葉が初めて使用され、全ての国道は、江戸期の「五街道」の考え方を受け継ぐ形で「日本橋」が起点とされ、1911(明治44)年の現在の「日本橋」の架橋時には、橋の中央に市電(のちの都電)の架線柱も兼ねた「東京市道路元標」が設置された。1920(大正9)年に施行された旧「道路法」でも、ほとんどの国道は「日本橋」(「東京市道路元標」の場所)を起点とされた。戦後の1952(昭和27)年、現「道路法」が施行されるが、「日本橋」は引き続き「国道1号」「国道4号」「国道6号」など7本の主要国道の起点となり現在に至っている。都電の架線柱でもあった「東京市道路元標」は、この区間の都電廃止の翌年、1972(昭和47)年の道路改修の際に移設され、代わりに「日本国道路元標」が設置された。写真は橋際に移設・保存された「東京市道路元標」(写真中央の柱)と、現在、橋の中央に設置されている「日本国道路元標」の複製(写真中央下部)。MAP __(日本国道路元標)MAP __(東京市道路元標の保存場所)

江戸で一番の活気を見せた日本橋の「魚河岸」 MAP __

江戸初期、「日本橋」から「江戸橋」にかけての運河(現「日本橋川」)沿いでは、「佃島」の漁師たちにより、将軍や諸大名へ献上した残りを売る魚市が開かれるようになった。この魚市が発展し「魚河岸」と呼ばれるようになり、近海からも鮮魚を満載した船が多数集まり、江戸で一番の活気を見せる場所となった。図は江戸末期に長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会 日本橋魚市』。【図は1834(天保5)年頃】

明治期以降も、「日本橋」の「魚河岸」は賑わいを見せた。写真は1922(大正11)年頃の「魚河岸」の様子。右奥にうっすらと「日本橋」が見える。左奥の一番高い建物は「村井銀行」(現「みずほ銀行」の前身の一つ)。【画像は1922(大正11)年頃】

「魚河岸」は1923(大正12)年の「関東大震災」後に築地へ移され、「築地市場」へ発展した。現在の「日本橋川」沿いには、オフィスビルなどが建ち並ぶ。

人と物が行き交う「日本橋」

図は葛飾北斎が晩年期に描いた『富嶽三十六景 江戸日本橋』。江戸末期の1831(天保2)年~1833(天保4)年に製作された。手前の人で賑わう橋が「日本橋」で、特徴の一つである欄干の擬宝珠も描かれている。運河の両岸に蔵地、運河の先には「一石橋」、その奥に「江戸城」、左奥に「富士山」が描かれている。
MAP __(一石橋)【図は1831(天保2)年~1833(天保4)年】

現在の「日本橋」上から「皇居」方面を望む。「日本橋川」の上空には「首都高速道路」が通っており、現在も人と物が行き交っている。写真中央下、道路上に埋め込まれているのが「日本国道路元標」、その上空に「東京市道路元標」の複製の柱が設置されており、「首都高速道路」上からも道路元標の位置が確認できる。

「伊勢町堀」と「米河岸」「塩河岸」

現在の日本橋小舟町のあたりには、江戸初期の1605(慶長10)年、旧「石神井川」の水路の付け替えにより上流からの流れを失った河口部を整備し、2本の行き止まりの水路「堀留」が作られた。「伊勢町堀」(「西堀留川」)、「堀江町入堀」(「東堀留川」)と呼ばれ、「江戸湊」の中心的役割を果たすようになった。堀の両岸には「米河岸」「塩河岸」「小舟河岸」などの河岸が置かれ大いに賑わった。図は江戸末期、『江戸名所図会』に描かれた「伊勢町堀」(「西堀留川」)で、右に「塩河岸」、左に「米河岸」の文字が見える。左下の「中の橋」は現在の日本橋小舟町3番付近、右中央の「道浄橋」は日本橋本町二丁目6番付近となる。「伊勢町堀」(「西堀留川」)は、1886(明治19)年に「道浄橋」から西側(図では上側)が埋立てられ、1928(昭和3)年には、「日本橋川」から北側、残り全ての区間が「関東大震災」の瓦礫で埋立てられた。
MAP __(中の橋跡地) MAP __(道浄橋跡地)【画像は1834(天保5)年頃】

「堀江町入堀」と埋立て

写真は明治前期の「堀江町入堀」。「堀江町入堀」は、1883(明治16)年に正式に「東堀留川」と命名された。奥に見える橋は「萬(よろず)橋」。写真のように、両岸は河岸や蔵地となっていた。MAP __(明治期の萬橋跡地)【画像は明治前期】

「東堀留川」のうち、現在の「日本橋保健センター」付近より上流側(北側)は「関東大震災」の瓦礫処理などで1928(昭和3)年に埋立てられた。明治期の写真にある「萬橋」付近も埋立てられたため、「萬橋」は南側に架け替えられた。写真は1948(昭和23)年の「東堀留川」で、中央の橋が架け替え後の「萬橋」。MAP __(萬橋跡地) 【画像は1948(昭和23)年】

「東堀留川」は、戦後の残土処理などのため、1948(昭和23)年から翌年にかけて、残りの部分も埋立てられた。「萬橋」があった場所は「堀留児童公園」の南側となる。写真は「堀留児童公園」の南から北側を撮影。

明治初期の「江戸橋」から望む「末広河岸」

江戸期にあった「日本橋」川筋の両岸の蔵地・河岸は、明治に入ってもその役割は引き継がれた。写真は明治前期、「江戸橋」から南東方向を撮影したもの。左側一帯が「末広河岸」と呼ばれていた。【画像は明治前期】MAP __(当時の江戸橋)

写真は現在の「江戸橋」から南東方向を撮影。「江戸橋」は1927(昭和2)年、「関東大震災」からの復興事業で建設された「昭和通り」の橋として、70mほど上流側(西側)に架け替えられた。MAP __(現在の江戸橋)


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