現在の中区と南区にまたがる伊勢佐木町から「吉野町駅」にかけての一帯は、かつて、釣鐘の形をした浅瀬の入海が広がっていた。北の「野毛山」、南の「山手」に挟まれた谷地で、西(図では上側)から「大岡川」が流れ込んでいた。入海の出口付近(図では下側)には「宗閑嶋(しゅうかんじま)」(「洲干島」とも表記される)と呼ばれた砂州が発達していた。この砂州は横に伸びる浜であることから、「横濱」という地名が誕生したともいわれる。江戸前期まで、この入海は塩田にも利用されていたが、周辺には農地となる平地は少なかったため、江戸の材木商・吉田勘兵衛が埋立てによる新田開発を計画、1656(明暦2)年に幕府から許可を得て着工した。図は『横浜吉田新田図絵』(1935(昭和10)年出版)に掲載されている、「吉田新田」の埋立て前の古地図で、新田開発の土取場は、北岸の「天神山」(現「日ノ出町駅」付近)、南岸の大丸谷(現「山手イタリア山庭園」付近)、東の「宗閑嶋」であったことが追記されている。埋立て工事は大雨による潮除堤の決壊により中断もあったが、1667(寛文7)年に「野毛新田」(「釣鐘新田」とも呼ばれた)が完成、1669(寛文9)年に四代将軍徳川家綱が功績を称え「吉田新田」に改称された。
江戸期、「東海道」が通る「神奈川宿」周辺は、「神奈川湊」もあり、人や物の往来で賑わった。一方、「神奈川湊」と湾を挟んで南に位置する「横濱村」には、砂州が発達した入海があり、江戸前期以降に新田開発が行われ、広大な平地が造成されていた。幕末期、幕府はこの「横濱村」の砂州上と新田一帯を「開港場」としたことから、横浜は日本の貿易の中心地として、また国内外の文化の集積地として発展した。