「大阪城」の北西にあたる「大川」の「天満橋」、「天神橋」付近は、中世には「渡辺津」と呼ばれる重要な港で、「熊野街道」の起点だった。ここは古代に存在した「難波津」に代わり水運の拠点となった港であり、江戸時代には大坂と京都を結ぶ「三十石船」の船宿が並ぶ「八軒家浜船着場」が置かれることになる。画像は16世紀後半の大坂を北から南に俯瞰した様子を想像して描かれた図。「渡辺津」から2本の街道が伸びており、左が「熊野街道」である。【画像は戦国時代】
大阪市の中心部には、「御堂筋」で結ばれた「難波」「心斎橋」という二つの繁華街が存在する。この場所は豊臣秀吉が築城した「大坂城」のある「上町台地」のすぐ西側に当たり、東西に「横堀川」「長堀川」などが開かれ、「堂島」「島之内」が早い時期に誕生した。江戸時代、城下町はさらに西側へと発展し、「道頓堀川」「江戸堀川」といった運河が開削され、新しい町と「八百八橋」が出来上がった。「天下の台所」と呼ばれた「大坂」は、明治維新後もさらに発展。五代友厚や地元人材の活躍を得て、産業革命の中心地となり、やがて日本第一の先進的工業地帯となった。商都「大阪」には、シンボルタワー「通天閣」がそびえ、市場や百貨店、商店街、飛行場などが次々と整備されていった。