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明治初期までの築地

築地は江戸前期に「西本願寺別院」のために埋立てられたことにより始まる。その後、門前に寺町が発達した。明治期に入ると「築地居留地」も開かれ、西洋の文化が入ってきたほか、海軍の町としても発展した。


築地の誕生と「築地本願寺」 MAP __

江戸期の1617(元和3)年、現在の中央区東日本橋三丁目に建立された「浅草御堂」(「浜町御坊」などとも呼ばれた)は、1625(寛永2)年に「西本願寺別院」として江戸幕府から公認された。1657(明暦3)年に発生した「明暦の大火」は、江戸市街の6割を焼失したといわれる江戸期最大の大火で、この大火で「西本願寺別院」も焼失した。幕府は、江戸の街の復興にあたり、防災のための改造に着手、その一環で多くの寺社を移転させた。「西本願寺別院」には代替地として八丁堀沖の海上(湿地帯)が与えられたため、「佃島」の門徒(「佃島」の築島の経験により埋立ての土木技術があったと思われる)が中心となって埋立てが行われ、大火の翌年の1658(万冶元)年に仮御堂が落成となった。その後、埋立てが進むにつれ、子院や新たに開創した寺など58ヶ寺が門前に集まり寺町を形成。「西本願寺別院」は1679(延宝7)年に再建、「築地御坊」「築地門跡(もんぜき)」などと呼ばれるようになった。この築地の地名の由来は、埋立てで新たな土地が築かれたことによる。図は江戸末期の1858(安政5)年に歌川広重により描かれた『東都名所 築地西御堂之図』。かつて本堂は南西向きに建てられており、現在の「築地場外市場」のあたりに塔頭58ヶ寺が並んでいた。【図は1858(安政5)年】

明治期に入ると「本願寺築地別院」(通称「築地本願寺」)と呼ばれるように。1872(明治5)年の「銀座大火」で焼失、さらに1893(明治26)年にも火災に遭い焼失した。写真は明治後期~大正前期の撮影で、奥に1901(明治34)年に再建された本堂が写っている。この本堂は畳敷543畳の大木造建築であった。【画像は明治後期~大正前期】

1901(明治34)年に再建された本堂は、1923(大正12)年の「関東大震災」(以下震災)時に発生した火災により再び焼失。1925(大正14)年、東京の復興計画の中で郊外への移転が検討されるが、門徒らは移転反対を表明。1928(昭和3)年に大崎の「旧島津侯爵邸」(現「清泉女子大学」)の敷地への移転が決定となるが、反対派との膠着状態は続き、結局、1930(昭和5)年に新本堂は築地での再建が決定、墓地のみ和田堀(現「築地本願寺和田堀廟所」)へ移転することとなった。新本堂の設計は当時の法主・大谷光瑞氏と親交があった伊東忠太氏(「東京帝国大学」(現「東京大学」)教授)へ委嘱され、1931(昭和6)年に着工、1934(昭和9)年に落成した。塔頭の多くは、震災復興計画などにより郊外(現在の世田谷区、大田区、葛飾区など)へ移転しており、跡地には「築地場外市場」などがある。【画像は昭和戦前期】

「本願寺築地別院」は2012(平成24)年、通称だった「築地本願寺」を正式名へ改称した。写真は現在の「築地本願寺」で、「浄土真宗本願寺派」の関東における中心拠点となっている。古代インド仏教様式の意匠を採り入れた鉄筋鉄骨コンクリート造りの建物は、現在も築地のランドマークとなっている。

1868(明治元)年に開かれた「築地居留地」

「築地居留地」は、1868(明治元)年に貿易のための市場として築地鉄砲洲(現・中央区明石町一帯)に開かれた。図は1869(明治2)年、歌川国輝(二代)により描かれた『東京築地鉄砲洲景』。図の右側に「築地居留地」が、左側には「新島原遊廓」が描かれている。右奥の塔のある建物が「築地ホテル館」。【図は1869(明治2)年】

日本最初の洋風ホテル「築地ホテル館」 MAP __

「築地ホテル館」(英語名では「Yedo Hotel」)は、1869年1月(明治元年11月)に開業した日本最初の洋風ホテル。「築地居留地」の開設にあたり、イギリス公使から幕府へ外国人用ホテルの建設の要請があり、これを受けて幕府の軍事教練所だった「海軍所」の跡地に建設された。「築地ホテル館」の敷地は、間口が約70m、奥行は約60mで、部屋数は102室あったという。敷地は幕府が提供し、建設と経営は「清水組」(現「清水建設」)の清水喜助(二代)が行った。完成すると東京の新名所となったが、1872(明治5)年の「銀座大火」により焼失した。存在した期間は僅かであったが、明治時代の幕開けを象徴する建物として名を残している。【画像は明治初期】

「築地ホテル館」の跡地は、「築地市場」が移転する前まで立体駐車場があったが、現在は解体されている。

「海軍発祥の地」とも呼ばれた築地

1853(嘉永6)年の「ペリー来航」をうけて、江戸幕府は近代海軍の創設を決定。築地には1857(安政4)年に海軍の教育機関「軍艦操練所」が置かれた。1862(文久2)年には勝海舟が頭取(学長に相当)となっている。1866(慶応2)年に「海軍所」へ改称、翌年、「浜御殿」(現「浜離宮恩賜庭園」)に移転した。明治期に入ると、築地の大名屋敷跡に海軍の施設が建てられるようになっていく。「海軍省」は1872(明治5)年に「兵部省」から独立、初代庁舎は築地に置かれた(1882(明治15)年に芝へ移転)。図は1877(明治10)年当時の築地の「海軍省」の敷地を描いたもので、赤字は明治期~戦前期の主な施設名、青字は現在の主な施設名を追記している。【図は1877(明治10)年当時の様子】

写真は大正期、震災以前の「海軍省」付近を空撮したもの。【画像は大正期】

築地には、1869(明治2)年に「海軍操練所」が創設され、翌年「海軍兵学寮」へ改称された。写真は1871(明治4)年に竣工した「海軍兵学寮」の建物。1876(明治9)年に「海軍兵学校」となり、1888(明治21)年に広島県の「江田島」へ移転した。写真の「海軍兵学寮」があった場所は、江戸期には長島藩増山家の中屋敷であった。
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「海軍兵学校 生徒館」(1883(明治16)年竣工)だった建物には、「海軍兵学校」が「江田島」へ移転となった1888(明治21)年、「海軍大学校」が開校した。「海軍大学校」は選抜された士官が学ぶ海軍の最高学府であった。この建物は震災で焼失した。
MAP __【画像は明治後期~大正前期】

「海軍大学校」は旧「築地市場」の「市場橋門」跡付近(写真では中央付近)にあった。

「海軍参考館」から医療の地へ

1908(明治41)年、かつて「海軍兵学寮」があった場所に、「海軍参考館」(海軍の資料館)が竣工、開館した。この建物は震災で倒壊した。【画像は明治後期】

1908(明治41)年、「海軍軍医学校」が築地(旧「築地市場」の敷地内)に移転。1911(明治44)年、その隣接地に、三井家の寄付と海軍の用地の無償貸与により、東京市営の「築地施療病院」が開院。ここでの診療は「海軍軍医学校」が行った。軍医学校、病院とも震災で被災したのち、「海軍参考館」の跡地一帯に再建された。「海軍軍医学校」は1929(昭和4)年に竣工。病院は1931(昭和6)年に竣工し「東京市立築地病院」となった。写真は昭和前期の撮影で、右側が「東京市立築地病院」、左側が「海軍軍医学校」。写真中央の高い台座に載る像は「海軍参考館」時代の1921(大正10)年に建物の前に建てられた「有栖川宮威仁親王銅像」。この像は1984(昭和59)年に福島県の「猪苗代湖畔」にある旧有栖川宮別邸である「天鏡閣」の敷地内へ移設され、現存している。
MAP __(築地施療病院跡)
MAP __(東京市立築地病院跡)【画像は昭和前期】

「海軍兵学寮」「海軍参考館」の跡地であり、震災後は「東京市立築地病院」「海軍軍医学校」となっていた一帯に、1962(昭和37)年、「国立がんセンター」が開設された。当初は旧「海軍軍医学校」の建物を改装して使用していた。1992(平成4)年に病院は「中央病院」に改称、1998(平成10)年に新棟が建設され、2010(平成22)年「国立がん研究センター」に改称され現在に至る。敷地内には「海軍兵学寮趾」「海軍軍医学校跡」の碑が建てられている。
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日本の活版印刷の発展を支えた「東京築地活版製造所」 MAP __

長崎の「オランダ通詞(つうじ・幕府の通訳)」家の養子であった本木昌造は、江戸末期に設立された「長崎製鉄所」で操船、造船、製鉄に関わるようになった。また、早くから印刷にも関心を持ち、1869(明治2)年に「活版伝習所」を開設、翌年には「新町活版所」を創業した。1872(明治5)年、「長崎製鉄所」時代からの本木の部下であった平野富二が、「長崎新塾出張活版製造所」を名乗り東京・神田和泉町に進出、翌年築地に工場を新築し移転。その後「東京築地活版製造所」となり、活版印刷機の本格的な製造も開始した。この頃、新聞・雑誌など活字での印刷物が増加し、活字・活版製造の需要も急増。1872(明治5)年の開設当初の活字販売量は約24万個であったが、1879(明治12)年には約1,014万個まで増えた。図は1885(明治18)年に出版された『東京盛閣図録』に掲載された「活版製造所」。手前の川は「築地川」で、左端に1874(明治7)年に架橋された「祝橋」が描かれている。【図は明治中期】

写真は2019(令和元)年撮影の「東京築地活版製造所」跡地付近。「東京築地活版製造所」は日本の活字界を牽引する存在となったが、震災での被災から徐々に衰退、1938(昭和13)年に解散した。現在、「東京築地活版製造所」があった場所は「コンワビル」(写真中央)が建っており、敷地の一角に「活字発祥の碑」が建てられている。「活版製造所」は1879(明治12)年に明朝かな書体の先駆となる活字を創出、その後も改刻を重ね、明治中期頃には「築地体」と称されるようになった。「築地体」は、昭和戦前期の写植の開発でも参考にされ、現在では「築地体」をベースとするフォントも多数開発されている。

「コンワビル」の左隣は1967(昭和42)年に竣工した旧「電通本社ビル」で、2021(令和3)年、「築地一丁目地区再開発事業」に伴い解体された。建築家・丹下健三氏によるモダニズム建築で、周辺のビルと空中回廊で連結し拡張できるように設計されていた。【画像は2019(令和元)年】


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