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大阪北部の交通の要衝


「呉服・穴織伝承」を今に受け継ぐ「呉服神社」 MAP __(呉服神社) MAP __(伊居太神社)

「猪名川」の畔に開けた池田の街には、「上の宮」「下の宮」という二つの古い神社が鎮座している。応神天皇の時代(3世紀後半から4世紀初め頃)、大陸にあった呉の国から渡来し、機織・裁縫技術を伝えたといわれる穴織(あやはとり)・呉服(くれはとり)の姉妹のうち、穴織が祀られているのが「上の宮」こと「伊居太(いけだ)神社」で、呉服が祀られているのが、「下の宮」こと「呉服(くれは)神社」。「呉服神社」は389(仁徳天皇77)年の創建とされ、呉服とともに、仁徳天皇が祀られている。【画像は1924(大正13)年頃】

毎年1月9日から3日間開催される「十日戎」は、大勢の参拝客で賑わう。現在の社殿は1969(昭和44)年に再建されたもの。

「池田城」は摂津の国人、池田氏の居城 MAP __

「五月山」の南麓には、室町時代から安土桃山時代にかけて「池田城」が存在した。国人・池田氏の居城で、池田氏は摂津守護を務めた細川氏の有力な家臣だった。1508(永正5)年に城主の池田貞正は細川高国方の軍勢と戦い、一時は落城したが、嫡子・信正が城を奪還。1568(永禄11)年、織田信長の摂津入国時、池田氏は抵抗したものの、後に信長に従い、池田勝正は「摂津三守護」のひとりとなった。その後、荒木村重の台頭で池田氏は没落し、村重の居城となった。村重はその後、「有岡城」に移り、信長と村重による合戦時には「池田城」は信長方の攻撃拠点となった。図は池田城の縄張り。

跡地は2000(平成12)年に「池田城跡公園」として整備され、「模擬大手門」や「櫓風展望休憩舎」などが建てられている。

中世に存在した「原田城」、昭和初期の「旧羽室家住宅」が城跡に建つ MAP __

現在の阪急宝塚本線「曽根駅」の西側、豊中市曽根西町四丁目付近にある「原田城跡」は、正確には明らかではないが少なくとも16世紀初期頃には「北城」と「南城」が築かれていたと考えられている。当時の城主も不明だが、1547(天文16)年、細川晴元の軍勢に攻められて「北城」は落城した。「北城」の跡地は昭和初期に開発された「松籟園(しょうらいえん)住宅地」に含まれ、1937(昭和12)年に建てられた「羽室家住宅」は、現在、国の登録有形文化財「旧羽室家住宅」として一般公開されている。この住宅の庭園は城跡の土塁などを活かした造りになっている。写真は現在「豊中市立原田小学校」がある場所付近から見た「北城」跡地。【画像は大正期】

現在、「原田城跡」「旧羽室家住宅」は「原田しろあと館」という愛称で呼ばれ、市民グループによる現地公開や館内ではイベントが開催されている。

西日本の大動脈「西国街道」 MAP __

古代から奈良・京都と中国地方を結んでいた西日本の大動脈である「山陽道」は、江戸時代には、自国と江戸とを行き来する西国大名の参勤交代のルート「西国街道」となった。このうち、起点である京都に近い東側は「山崎街道」とも呼ばれ、現在の京都府内の「山崎宿」から、大阪府高槻市の「芥川宿」、茨木市の「郡山宿」、箕面市の「瀬川宿」、兵庫県伊丹市の「昆陽宿」、西宮市の「西宮宿」の六宿駅が置かれた。

写真は「西国街道」沿いの「萱野三平(かやのさんぺい)旧邸」。萱野三平重実はこの地・萱野村(現・箕面市萱野)の生まれで、13歳の時より赤穂藩士として浅野長矩に仕えていた。「赤穂事件」の原因となった「江戸城」の「松之大廊下」における刃傷事件で長矩が切腹となったのち、主君への忠義を貫くと家族・親類に迷惑がかかることに悩み、討ち入り前の1702(元禄15)年、この地で自刃した。【画像は1942(昭和17)年頃】

「萱野三平旧邸」の一部は1973(昭和48)年に大阪府の史跡に指定されている。邸内には「萱野三平記念館」があり、三平に関する資料が展示されている。


渓口集落、池田の発展

「五月山」から池田を望む

「五月山」から池田を望む。左下の鳥居は「愛宕神社」の「一の鳥居」。
【画像は1939(昭和14)年】

「五月山」から池田を望む

現在は有料道路「五月山ドライブウェイ」が通り、この展望台は「秀望台」と命名されている。また、夜景スポットとしても知られ「夜景100選」にも選定されている。
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池田一帯は、「五月山」を含んだ「北摂山地」の山間部から「猪名川」が「大阪平野」の北西部に出る地点にあたり、渓口集落として発展した。「猪名川」の流れとともに、陸上では大阪に至る「能勢街道」が通り、農産物や物産品が集められ、池田の地から大阪方面に運ばれた。「猪名川」の上流、川西市にかけての多田周辺には、古くは銅山、江戸時代には幕府直轄の銀銅山となった「多田銀銅山」があり、池田の地を経由して大量の銀や銅が大阪に運ばれた。

それらの銀の精錬に用いられていた木炭は能勢で作られたもので、その品質の高さから、京都や大阪にも出荷された。池田がこの炭の集積地であったことから「池田炭」と名づけられ、池田の一大産業となり、最盛期、池田には炭問屋が40軒以上あった。他にも「猪名川」の伏流水で醸した辛口の「池田酒」は、江戸中期に人気を集め、最盛期には38軒の酒蔵が池田にあり、江戸にも売り出された。また、池田北部、谷の入口にあたる細河地区の植木は日本の植木の四大産地の一つに数えられていた。細河では天文年間(1532~1555年)に山林用苗、桑苗作りが始まり、接木の名人、六蔵により盛んになったと伝えられている。江戸時代初期に栄えた後、一時衰退したが、明治・大正時代に再び植木の栽培が盛んになった。

物資の集積地として盛んになった商業、「猪名川」の伏流水を使った「池田酒」、山に面した地形独特の気候や地質が生んだ上質な植木など、地形を活かしながら発展した池田。現在は穏やかな住環境と利便性を兼ね備えた、北摂地域の住み良い住宅街として人気を集めている。



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※「おおさか」を漢字で書くとき「大阪」と「大坂」の表記がある。江戸時代は、「大坂」と書かれることが多かったが、大坂の「坂」の字が「土に反る」と読めるので縁起が悪いという理由で(諸説あり)、明治時代以降「大阪」に統一された。本文中では、江戸時代以前は「大坂」、明治時代以降は「大阪」に便宜上統一した。



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