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「平城京」の誕生と寺社創建


遷都とともに奈良に移った「興福寺」 MAP __

「興福寺」の起源は、669(天智天皇8)年、山階(現・京都市山科区)に造営された「山階(やましな)寺」。672(天武天皇元)年に「藤原京」へ移り「厩坂(うまやさか)寺」となり、710(和銅3)年の「平城京」遷都の際に、平城京左京三条に移り「興福寺」となった。遷都は藤原不比等の実権下で行われており、藤原氏の氏寺「厩坂寺」も移転された。平安時代には「興福寺」は大和国の事実上の国守として、大きな権力を持つこととなる。しかし、「源平合戦」時には、平重衡(たいらのしげひら)の「南都焼討」により、多くの伽藍が焼失した。【画像は昭和戦前期】

写真中央は室町時代に再建された「東金堂」と「五重塔」。ほかに鎌倉時代に建設された「北円堂」「三重塔」が現存する。また、世界遺産「古都奈良の文化財」の一つとなっている。

「シルクロード」の最東端、国際都市「平城京」

「平城京」は710(和銅3)年に飛鳥の「藤原京」から遷都された。唐(現・中国)の都・長安をモデルにし、東西南北を大路で区画する「条坊制」の都市計画が行われ「右京」「左京」「外京」が設けられ、「平城宮(内裏)」「朱雀大路」「東大寺」「西大寺」「薬師寺」などが建設された。当時「シルクロード」の最東端にあたる国際都市であり、大陸から物資が運ばれてきた。「平城宮」一帯は「長岡京」「平安京」への遷都後、田畑になったという。

江戸末期になると、「藤堂藩古市奉行所」(現・奈良市古市町)に務めていた北浦定政により「平城宮」跡地の研究が行われた。明治中期になると建築史学者・関野貞氏がさらに研究を進め、1900(明治33)年、残存する土壇が「平城宮」の「大極殿(だいごくでん)」跡地であることを新聞に発表、重要性と保存を訴えた。「大極殿」は古代日本の朝廷で最重要だった建物で、天皇の即位式や外国使節との面会など国家的な儀式が行われた。

関野氏の発表の翌年となる1901(明治34)年、「大極殿」(現「第二次大極殿」)の土壇跡に「平城宮大極殿舊址」と記された標木(写真左)が建てられ「平城宮跡」の保存運動の先駆けとなった。写真右の標木は1910(明治43)年、「平城奠都一千二百年祭」の際に建立されたもので「平城宮址記念碑建設地」と記されていた。2本とも高さ3mほどで、1929(昭和4)年までこの地にあった。写真は明治末期~大正期の撮影で、「大極殿」跡地から北東方向を望んでいる。
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「第二次大極殿」は745(天平17)年から約40年間使われた「大極殿」で、現在は基壇や柱跡などが復原されている。

「平城京」への遷都直後から740(天平12)年の「恭仁京(くにきょう)」への遷都とともに移築されるまで使用されたものが最初の「大極殿」(「藤原宮」からの移築ともいわれる)で現在は「第一次大極殿」と呼ばれる。745(天平17)年に再び「平城京」へ遷都した際、元の場所の東側に新しい「大極殿」を建立しており、現在は「第二次大極殿」と呼ばれている。現在の「第一次大極殿」一帯の調査は1965(昭和40)年頃に始まっており、その後、旧来から知られてきた「第二次大極殿」と区別されるようになった。近年、「朱雀門」(1998(平成10)年完成)、「東院庭園」(2000(平成12)年完成)、「大極門」(2022(令和4)年完成)など「平城宮」の一部建物・施設の復原が行われており、特に「第一次大極殿」(写真)の復原は2010(平成22)年の「平城遷都1300年祭」に合わせて完成・公開となり、大きな話題となった。1998(平成10)年には「平城宮跡」として、世界遺産「古都奈良の文化財」の一つとなっている。
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聖武天皇が創建した「東大寺」 MAP __

「南都七大寺」の一つ「東大寺」は、聖武天皇が728(神亀5)年に数々の災難から国を守るために建立した「金鍾山寺(きんしょうさんじ)」が前身寺院とされる。大和国の「国分寺(金光明寺)」となり、745(天平17)年頃から大仏の造立を開始、この頃から「東大寺」の名称が用いられた。752(天平勝宝4)年、「大仏開眼供養会」が行われた。聖武天皇崩御後も講堂や東西の塔、「三面僧堂」などの造営が789(延暦8)年まで続けられた。【画像は大正期】

「東大寺」の伽藍の多くは天災や失火、兵火などにより焼損したため、鎌倉時代以降に再建されたものとなるが、「法華堂(三月堂)」は奈良時代に建てられたもので、現存する「東大寺」の伽藍の中では最古の建物となっている。写真の「大仏殿」は、江戸前期の1709(宝永6)年、公慶(こうけい)上人の「大仏復興」の際に再建されている。

藤原氏の氏神として栄えた「春日大社」 MAP __

「平城京」が誕生した頃に、藤原氏の氏神である「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」が「鹿島神宮」から奈良の地に勧請され、祀られた。社殿は768(神護景雲2)年、称徳天皇の勅命により、藤原永手が造営したといわれている。神仏習合が進むと、藤原氏の氏寺「興福寺」と一体となった。その後、1871(明治4)年に「官幣大社春日神社」となり、1946(昭和21)年に「春日大社」に改称した。【画像は大正期】

現在の「一之鳥居」は1638(寛永15)年に再建されたもの。全国に広がる「春日神社」の総本社であり、世界遺産「古都奈良の文化財」の一つでもある。


早春の「山焼き」で有名な「若草山」、「三笠山」とも呼ばれた

「若草山」

大正期の「若草山」。自生する天然の芝は、鹿と共生するように独自に進化した固有種といわれる。【画像は大正期】
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「若草山」

現在の「若草山」。

『小倉百人一首』に登場する『天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも』は、「遣唐使」として唐(現・中国)に渡った阿倍仲麻呂が、故郷を懐かしんで詠んだ和歌として知られる。この「三笠山」は現在では「若草山」と呼ばれ、奈良を訪れる人々の憩いの場となっている。

「若草山」は「奈良公園」の東側に位置し、標高は342m。山頂には5世紀頃の前方後円墳「鶯塚古墳」があることから「鶯山」とも呼ばれるほか、山の緩やかな線が三段をなす形状のため「三笠山」と呼ばれてきた。「春日大社」のご神体、標高283mの「御蓋山」(簡易表記の際は「三笠山」、通称「春日山」)と混同されることがあるが、それとは別の山で阿倍仲麻呂が詠った「三笠山」は「御蓋山」だったという説もある。

全体が芝生で覆われている「若草山」では、鎌倉時代から山に生える草を焼く「山焼き」が行われており、現在では毎年1月下旬の夜に、奈良の早春の行事として実施される。山麓では式典が開催され、「山焼き」開始直前の大花火も相まって夜空を炎が彩る、規模の大きな祭典となっている。「山焼き」の起源は不明だが、一説には「東大寺」と「興福寺」の領地争いを和解させるために山を焼き払ったことがはじまりともいわれている。

「若草山」を含む「奈良公園」は1880(明治13)年に開園。総面積約502haで、ほぼ国有地となっている。また、これに「興福寺」「東大寺」「春日大社」などを含めた総面積約660haのエリアが、一般的に「奈良公園」と呼ばれる範囲となっている。


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※本ページでは大阪の表記について、江戸時代以前は「大坂」、明治時代以降は「大阪」で統一している。



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