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江戸期・明治期の日比谷付近


「日比谷入江」の埋立て

江戸期に入るまで、現在の丸の内から新橋にかけての一帯には浅瀬の海が広がり(「日比谷入江」)、現在の銀座のあたりは砂が堆積し半島となっていた(「江戸前島(えどまえじま)」)。徳川家康は、江戸を開府した1603(慶長8)年から、全国の大名に普請を命じ「外濠」や運河の開削、「平川(日本橋川)」といった河川の付け替えなど、江戸の街の大改造を行った。「日比谷入江」は1592(天正20)年、「西丸」(「西の丸」)の築城工事の残土で埋立てが始まり、1603(慶長8)年から本格化した。図は地形を影、標高を色で表現した「陰影段彩図」に、「地形分類図」(「国土交通省 国土政策局」作成)を参考に「砂州・砂堆」(黄色横線)、「氾濫原低地」(水色斜線)、「旧水部・現水部」(青色斜線)の形状を重ねたもの。

「二重橋」の名称の由来 MAP __(正門鉄橋) MAP __(正門石橋)

江戸初期の1614(慶長19)年、「江戸城」の「西丸」が改修された際、「西丸玄関前御門」(「西丸下乗門」とも呼ばれた)へ渡る「西丸下乗橋」が架けられた。写真は1871(明治4)年の撮影。この場所は濠が深く、当時の技術では架橋が難しかったため、下に張り出した石垣を造り橋を架け、その橋の上にさらに橋脚を設けて架橋するという二段造りの構造となった。このことから、通称「二重橋」と呼ばれるようになった。【画像は1871(明治4)年】

「西丸下乗橋」(「二重橋」)は写真奥の橋。写真手前左側には「西丸大手御門」が設けられ、門につながる橋として、1624(寛永元)年に「西丸大手橋」が架けられた。写真は明治初期の撮影で、「西丸下乗橋」「西丸大手橋」とも江戸期に架けられた木造の橋が残っている。【画像は明治初期】

写真は現在の様子。手前の橋「正門石橋」(旧「西丸大手御門」、詳細は次段落参照)は明治期に架けられたものが残り、通称「めがね橋」と呼ばれている。

1884(明治17)年、「江戸城」の「西丸」があった場所に、「明治宮殿」(「宮城」(現「皇居」)の中心となる建物)が着工となった(完成は1889(明治22)年)。「西丸大手御門」は「宮城」の「正門」とされ、これに伴い、1888(明治21)年、「西丸下乗橋」は鉄橋に架け替えられ「正門鉄橋」となった(この時に橋の構造は二重ではなくなっているが、通称は「二重橋」のまま)。翌年には「西丸大手橋」が花崗岩の二連アーチ橋に架け替えられ、「正門石橋」となった。写真は明治後期の「正門石橋」(中央手前)と「正門鉄橋」(中央奥)。【画像は明治後期】

写真は現在の様子。「正門鉄橋」は1964(昭和39)年に同じデザインで架け替えられている。前述のように、「二重橋」は本来、「西丸下乗橋」(のち「正門鉄橋」)の通称であるが、明治期以降は「正門石橋」と「正門鉄橋」の二つの橋の総称として使用されることも多い。

神前結婚式を創始した「日比谷大神宮」 MAP __

1880(明治13)年、有楽町の大隈重信邸跡に「伊勢神宮」の遥拝殿が創建された。1882(明治15)年に「大神宮祠」(通称「日比谷大神宮」)となり、1899(明治32)年に「神宮奉斎会」(戦後誕生する「神社本庁」の前身の1つ)の本院となった。1900(明治33)年、当時の皇太子(のちの大正天皇)の結婚式が宮中の神前で行われると、翌年「日比谷大神宮」では、これを記念して一般の人々に向けた神前結婚式を創始した。【画像は明治後期~大正前期】

「日比谷大神宮」は1923(大正12)年に「関東大震災」で社殿を焼失。1928(昭和3)年に飯田橋へ移転し「飯田橋大神宮」となり、戦後に「東京大神宮」へ改称、近年では縁結びに御利益のある神社としても知られている。「日比谷大神宮」の跡地は現在の「日比谷ゴジラスクエア」付近となるが、一帯は震災復興時に区画整理が行われた地区であり、痕跡は残っていない。

1900(明治33)年に設置された「楠木正成像」 MAP __

江戸末期から明治期にかけて「南朝忠臣顕彰運動」が盛り上がり、鎌倉時代末期に南朝側についた楠木正成などの武将が忠臣として評価されるようになった。1889(明治22)年、住友家は、翌年にひかえた「別子銅山」開山200年の記念として、楠木正成の銅像を「宮内省」(現「宮内庁」)へ献納することを決定。原型となる木像は、開校まもない「東京美術学校」(1887(明治20)年設立、現「東京藝術大学」)に依頼、高村光雲をはじめとする教授、学生らが約3年をかけて制作し、1893(明治26)年に完成となった。引き続き鋳造の工程に入るが、高さが4mを超える巨大なものとなったため、従来の国内の技術では不可能であった。研究の末、国内で初めて分解鋳造(パーツごとに分けての鋳造)が行われ、研磨などの仕上げを経て、1896(明治29)年、銅像部分が完成した。その後、花崗岩の台座も完成し、1900(明治33)年、現在の「皇居外苑」の南東の一角へ設置され、「宮内省」へ献納された。【画像は明治後期~大正前期】

写真は現在の「楠木正成像」。戦時中の金属回収は免れたものの、戦後の1947(昭和22)年、「連合国最高司令官総司令部」(以下「GHQ」)は軍国主義に貢献した銅像(いわゆる「戦犯銅像」)の撤去を指示、全国で約350もの像が撤去されたという。このとき、「楠木正成像」も『忠君愛国』の象徴として撤去が決定していたものの、政治的な判断があったともいわれ、実際に撤去が行われることはなかった。

「日清戦争」の凱旋門 MAP __

1894(明治27)年7月、日本と清国の間で朝鮮の支配権を巡り「日清戦争」が起こった。同年9月、前線に近い広島へ大本営が移され、明治天皇も大元帥として広島に滞在した。日本軍は平壌、黄海などで勝利、1895(明治28)年4月に下関で講和条約を締結、終戦を迎えた。明治天皇が広島より東京へ還幸する同年5月30日、「新橋駅」(のちの「汐留駅」)から「宮城」(現「皇居」)に向かう道路上に仮設の凱旋門が造られた。木造で、長さは約110m、中央に高さ30m以上の塔をもち、全体が杉の葉で覆われた「緑門(りょくもん)」であった。写真は同日の様子で、戦勝を祝う人々が集まっている。この凱旋門は「東京市商人有志奉迎会」によるもので、渋沢栄一、岩谷松平をはじめ財界の要人が委員となり、三井・三菱・古河をはじめとする財閥や企業の寄付により造営された。写真右奥の建物は「海軍省」、左奥の建物は「帝国議会仮議事堂」の一部。【画像は1895(明治28)年】

凱旋門が造営された場所は、現在の「日比谷公園」の南側付近で、中央の塔の場所が現在の「西幸門前交差点」となる。「帝国議会仮議事堂」があった場所には「経済産業省」がある。

「宮城前広場」と「凱旋道路」 MAP __(馬場先門跡地)

現在の「皇居外苑 皇居前広場地区」は江戸期には諸大名の屋敷地であったが、「明治維新」後は政府の土地となり兵舎などが置かれていた。その後、「宮城」(現「皇居」)の造営が行われていた1888(明治21)年、この場所は「宮城前広場」として整備が始められ、翌年竣工している。1904(明治37)年、「日露戦争」の祝勝行列が行われた際、広場の入口となる「馬場先門」に多くの人々が殺到、20名の死者を出す大惨事となった。この事件を受け、政府と東京市は「市区改正新設計」の中で「宮城前広場」の公園化と道路の設置を計画、「馬場先門」は撤去され、1906(明治39)年の「凱旋大観兵式」に間に合うように「馬場先大通り」(現「馬場先通り」)と「凱旋(祝田)通り」(現「内堀通り」の一部)が建設された(共に「凱旋道路」とも呼ばれた)。写真は1930(昭和5)年頃の撮影で、右の道路が「馬場先大通り」、その先の左右に延びる道が「凱旋(祝田)通り」。「馬場先大通り」の左右に「宮城前広場」が広がり、左奥に「二重橋」が見える。【画像は1930(昭和5)年頃】

写真は現在の「馬場先通り」で写真中央奥付近が「馬場先門」の跡地。


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※本ページでは、現在の千代田区日比谷公園、内幸町、有楽町、丸の内三丁目一帯を対象としている。
 特に明記していない場合、「戦前」「戦時中」「戦後」「戦災」の戦争は「太平洋戦争」のことを示している。



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